どこまででも行けるから

ちょっとまだ何書くか決めてませんが、真面目なことも、つまらんことも書いていこうと思います。

右脚アキレス腱断裂で学んだこと

※高2か高3(2019,2020年頃)に書き始めた内容の続きを大4(2024年)になって追記した状態なので表現の古さが目立ちますアハ。時空超えすぎやろ。

※っていうかいつもとテイスト違うやんけというか全然久しぶりやんけと思った方々、お久しぶりです。就活が終わりました…!!!フゥ!!!

※とは言いつつも、このブログを開設した最初のきっかけが、自分の経験を発信して少しでも多くの方に生きる希望を持って欲しいな的な壮大なものだったので5~6年の時を経て遂に目標達成です。おめでとう、ありがとう。

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

実は私、以前右足アキレス腱断裂をしておりました。ということで、今回はアキレス腱断裂についてお話させていただきたいと思います。

 

 

 

私は昔からかなりの泣き虫で、母にひたすら泣くなと言われ続けていました。

(しかしながら良く言うとアクティブすぎて小学生時代のあだ名が「キックボクシングの元世界チャンピオン」だった話はまた今度…)

 

 

でも中学に入ると一応メンタルは鍛えられていました。

ちなみに中学生のときの部活はバレーボール部でした。ポジションはリベロ、サーブもアタックも打たない守備専門の人間ですね。

 

バレーボール部は、平日は当然毎日(外練で雨の時は雨のかからないところで)練習、休日ももちろん練習、ちなみにほぼ毎週末練習試合もありましたね、学校の体育館が取れなかったときは休みかと思いきや、「○○中に練習試合できないか聞いてるから!」って、先生がめちゃくちゃバレーが好きでした。ちゃんとした休みは年末年始の5日間とお盆休みのうちの数日間とまた数日。合宿も行きました。

 

まあ中2から顧問の先生変わっちゃってこれまた違う意味で大変だったって話は置いときます、ちなみに中3頃になると新しい顧問の先生も飽きたのか月1で休みがありましたね、それはそれで嫌だったけど。

 

 

中学時代の怪我は、指の剥離骨折とか捻挫。そのうち骨折、捻挫しても動かせるやん、となり病院にも行かなくなった(問題発言)。

簡潔に言うとアキレス腱を切るまでは結構健康体でした。とにかくタフすぎた。

 

 

そして引退後は英語のスピーチ大会に出てみたり、受験勉強で大号泣感謝祭を毎日開催してみたり、これはこれで大忙しでしたね、とにかく受験は大変だった、こんな一言じゃ言い表せないし、とんでもない感謝の念があるから何にも言えなくなっちゃうけど。

 

 

 

高校に入った私の周りには同じ中学出身の人は誰もいませんでした、こういう時はぴえんっていうのが正解ですかね、ぴえん。

元からちょっと緩い部活にしようとか思っていたし(毎日部活は家から学校が徒歩な訳じゃないし辛いなと)、特に意思はなかったから仲良くなった子と同じ部活に入ろうと思っていました、チキンやな。まあ結構人見知りなんで、ちなみにクラス替えが本当にメンタルによろしくない。

 

ってなわけで友達に誘われるがまま、バドミントン部に入りました、中学の時友達と5回打てて喜んでた身だけど。2.5往復です。ヤヴァイ。

 

 

バドミントン部は放課後練習は週3日。というか私の学校自体部活にそこまで力入れていない学校だったらしいと後で気づきました。

ですがそんな簡単ではない部活生活、上下関係が厳しかった…!(ちなみにこれは後で「先輩大好き!」となるアレです。例外ではない。)中学の時も上下関係厳しい部活に所属していた私的には勧誘の時点で「あ、これ厳しい感じやな」と感じていたのですが、みんなは「まさか…!」って感じだったっぽい。ちなみにこれもチキって先に言えなかった、ごめんって。

 

 

入部して夏休み最後の合宿が終わるまでは素振りとサーブとクリアーっていうの以外全部筋トレ。素振りはもうとんでもなくさせられるんですけど(言い方)、それ以外でラケット触れる時間は全体の7分の1あったかな~ぐらい。手押し車とかきつかったな~。

でもそんな私、まさかの高1の夏、無双します。え?なんでかって?

そりゃ私、トレーニング系大得意だったから。

 

 

レーニング系は中学のバレー部でやってたのがほとんどで、アザラシ(のけぞった状態で手だけで進むやつ、調べたら出てくる気がしています)とかもう大得意。速いから先頭行かせてもらってました。いやこんなのどんなマウント?もはやマウントも取れてないなこれ。でも、ほとんどの人が泣いていた夏合宿で泣かなかったのはかなりの自慢。だって中1の時地獄の夏合宿経験してるから。合宿っていうのはメンタルの電源切らないといけないんだってその時学んでたから(おかげさまで中学の夏合宿の記憶はない)

 

ちなみにハードル走のテストで1個以外全てのハードルを倒し、創作ダンスのテストでは欠かさず笑われ、中3になってやっと短距離走の「腕を振る」の意味が分かった(それまで勘違いして肘振ってた)ぐらいの私は、中学のマラソン大会160人ぐらいの女子の中で16位?19位?どっちか忘れたけどそんなもんだった。これは多分ずっと言い続ける。あと中3の体育選択で長距離取ったけど、陸上部の女子の後ろにピッチリついて行って先生にめちゃ褒められた。まじで得意だった。

 

そんで高校では辛くなったら涼しいところで休憩していいよっていうルールだったんだけど(中学の時は暗黙の了解でそんなの相当じゃないとダメだった)、学年の中で唯一休まなかった。

 

とまあここまで来たら分かると思います。もしかしてコイツ、根性しかない???

バレちゃいましたか、実は私根性はそこそこにあるんですよ、人並みに。でもそれ以外は他の人より足りてない。きっと欠けまくってる。すまん。

 

 

でもこの頃になると思うんですね、バドミントン楽しい?って。

実は最終的に中3の引退試合の頃にはスタメンを外されていた私なんですが(けどこれに関しては納得いってない)、高校ではだからこそ引退試合時には絶対スタメン入りするっていう目標は立てていました。

 

そんなこと言っても冗談誇張抜きでめちゃめちゃ下手クソだったので(何より夏合宿の最後までというか秋ごろまでサーブまともに入ってなかった)家で素振り練習したりしていたりしてたおかげか、練習抜けないおかげかクリアーが上手く出来るようになったもんで、バドミントン、好きだなぁと思いました。

 

 

そんなこんなで秋のダブルス決め。これはもう話すと本題ずれまくりなので詳しくは申し上げませんがダブルスもしたかったけど、シングルスになった。これが結論です。

 

元々シングルスに興味があったし(団体競技のバレーボールをしていたからこそ)、シングルスって自分の頑張り次第で下手にもなるけど上手くもなれるじゃないですか。自分の努力がそのまま反映されるのってバレーと違っていいな~って。

 

シングルス生活は本当に軌道に乗っていて、めちゃめちゃ楽しかったです。超楽しかった。先輩相手にいい試合できた時は嬉しかったです。

この頃から練習ごとに反省ノートを書いていたのですが(中学の部活で事あるごとに練習ノートを書いていたことを思い出して)、試合の記録も良くなっていて充実していました。

 

 

でもね、冬休み、急に転機が訪れます。先輩とダブルスを組ませて頂けることになりました。

 

ごめんなさい、は?ってなりましたよね、すみません。でもこの先輩のペアの方が部活を辞められて他の方経由で組んでみない?と。先輩と組ませて頂けることによって色々教えていただける!ってなったんですよ。

 

そんな感じで組ませていただけることになった冬。ちなみにダブルスは初心者でした、文句言わず優しく教えてくださった先輩には頭が上がりません。もう下手すぎるし頭がアホすぎてダブルスの動き方理解出来なさすぎたもんで、反省ノートはカオスでした。スランプだったけど、とにかく毎回目標を立てることが大事!と思って必死でした。毎回練習終わりにはダブルスの攻め方、守り方、どこにどんなシャトルを打てば決められるのか、とにかく書きました。

その努力が実ってか、ちょっとダブルスでも勝てるようになったりして手ごたえを感じてきた冬。悲劇は急に訪れました。

 

 

冬休みが明けた1月のその日はホームルームがあったので各自で準備運動でした。この日のことはパニック過ぎてもうあまり記憶に無いのですが、先輩の方が先にアップが終わっていたか、早くシャトルが打ちたくてかそこまでちゃんと準備運動をしたかと言われるとうなずけません。

 

この日は1週間の中で1番長い時間練習できる曜日でした。最後の試合形式の練習で先輩方のペアに当たりました。主将・副将の先輩ペアで、めちゃめちゃ上がり症の私はいつも試合前から縮こまってしまう方々でしたが、今日こそは自分の実力発揮するぞ!という心持ちでした。

その試合は本当に調子が良くて、得意のドロップも決まったり、いつもだと押されてばかりだったのにいつもより競れていました。

私の前方にシャトルが落とされました。あ、取らないと、と思ったその時。

   バンッ

 

耳元で音がしました。え?何?何の音?

前につんのめる形で転んでいました。その後に聞こえてくるのは一緒に試合をしていた先輩方の「どうした?大丈夫?」という声。
何自分しゃがみこんでんだ、早く立ち上がらないとやってくださってるのに迷惑じゃん。立ち上がろうとすると、右足のかかとに激痛が走りました。

何度か立ち上がろうとしても痛みが強すぎて立ち上がれない。なんで?どういうこと?

とてつもなくハードな夏合宿でも泣かなかった私が高校の部活で初めて泣いたのがこの時でした。とにかくやばいことをしたことだけは分かっていた。

周りにはみんな集まってくださって、同級生が氷とか足を上げるための箱を用意してくれたりした。でも靴を脱がせようと靴を引っ張ってくれたら(私の負担が少ないと思っての事)それはそれは痛くて。靴紐解くのにも足首が痛くて。とにかく私はなんで痛いの?これは何?とか言う感情や、先輩と試合させて頂いていたのにこんな部全体を巻き込むようなことをさせて申し訳ないという気持ちで完全に1人でパニック、ただ泣いてしまっていた。

夏の時に私に「体力あるね」と言ってくださった先輩がいて(Aさん)、その方が私に「どんな感じ?」と聞いてくださったときに「足を倒したら角度が行き過ぎて(曲がりすぎて)バンッて音がしました」って言ったこと、その時にAさんが顔をしかめていたこと(ちなみにこの後もめちゃめちゃ気にかけて下さった本当に頭上がんない)ぐらいしか覚えていません。

その後車いすで保健室まで運ばれるときにもみんなに注目されて(そりゃそう)恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちで俯くしかなかったのを覚えています。

 

保健室に運ばれて母に電話しました。というのも、私の状況的に病院に行かないといけない、親に迎えに来てもらえるように連絡して、と言われたからです。私が今までこういう大怪我をしたことが無かったからでしょう、パート中の母は「今仕事中だから無理」と言いました。いやいやいやいや落ち着いて?この時は思わず言ってしまいましたね。というかまったりしている母にが怖くなって泣き叫びました。「そういうレベルの怪我じゃないのよ!迎えに来てもらわないと家に帰れないの!今歩けなくて車いすに乗ってるの!」 さすがにやばいと気付いたらしいです。途中で仕事を切り上げると言ってくれました。(安心)

 

ソファのある部屋で保健室の先生、顧問の先生に看取られて(嘘です、見守られてですね)、周りにも色々な先生が心配して来て下さいました。担任の先生からは抹茶のキットカットの大袋を貰い、顧問の先生からはピザまんとみかんを貰いました。

顧問の先生と果たしてこれ(怪我)は何なのかって話をしていて、肉離れかアキレス腱断裂じゃないかと言われました。肉離れだと全治3週間、アキレス腱断裂だと3ヵ月はかかると言われました。2月には初めての大会が控えていた私は「お願いだから肉離れであってくれ…」と心の底から願っていました。というか3週間だともうほとんど間に合わないと同然だから、「出来ればもっと早く治ってくれ…」と泣きながら思っていました。

 

怪我したのが16時半か17時前で、18か19時頃だったかに母と父が学校に来た気がします。母が車で高校まで来るのは困難だったので父にも仕事を早めて来てもらったらしい。

20時頃かもう少し遅い時間だった気もしますが、そのくらいにやっと病院に行けました(その病院はめちゃちゃんと診てくれるんだけどその分かなり時間が掛かって、1人につき1時間近くかかるらしい、そして病院は狭いから学校で順番待ちをさせてもらえたということ)。タクシーで学校から病院まで送ってもらう感じです。

 

病院での診察はシンプルに痛かったです。よく分からないけど触ったところ全てが痛い感じ。その時は泣くのを割と耐えていた気がしますが、病院の先生の話で泣き崩れてしまいました。私の怪我は全治半年の右脚アキレス腱断裂でした(ちな完全断裂)。

もうあまりこの日のことは覚えていなくて、私はずっと涙が止まらなくて、看護師さんからティッシュを貰って、でもそのティッシュも一瞬で涙でグシャグシャになっちゃって、色々やった後に松葉杖の練習をして、意外と松葉杖を扱うのは難しくて、でも右足をついたら激痛に襲われるから本当につけなくて転びそうになって、少し歩いたり階段を上ったりするだけでも恐ろしいほどにしんどくて、でも最後に病院の先生が「また来てね」みたいなことを軽く言ってくれて少し気持ちが楽になったような気がして…という感じでした。診察が終わったのは確か22時前でした。

 

学校から病院まで父が車で迎えに来てくれていたのでそれに乗って帰宅しました。帰りに姉に電話しました。確か姉は彼氏の家に泊まっていた様な気がします。姉には絶対に馬鹿にされるだろうと思っていたので空元気のみで話しました。

先輩にメールを送りました。後日見たら先輩のお名前を打ち間違えていて本当に申し訳なかったのを覚えています。本来であれば怒られて当然の話なのですが、何も触れずに気にしないでいて下さった先輩の優しさを感じました。

 

次の日学校があったのですが、顧問や担任の先生、親からも言われてしまい休むことになってしまいました。私はひそかに皆勤賞を狙っていたから結構悔しかったと同時に、もうこれ以降は何回でも休んでいいんだ~とか思っちゃったり。この日のことは結構覚えています。

とにかくよく寝た状態で、足を上げていなさいと言われたので、自室で延々寝かされて、教科書で脚を上げさせられていました。非常にこの態勢がきつかった。だって上げてる脚ってギブス着けてるんですよ、教科書の上なんて狭いし硬いから落ちそうになるけど、落ちたらとんでもなく響いて痛いので絶対に落とせない。クッションの上かに載せれば良いかもしれないけど、クッションの上だとギブスが重いから胸より上には上がらない。空は結構晴れているのに、どうして自分はこんな所で寝転がらないといけないんだろうと、どうして自分は風邪を引いたわけでもないのに学校を休まないといけないんだろうと泣いた記憶があります。

 

 

ここで一瞬失礼しますが、ここまで↑が高校生の時に書いた内容です、これ以降↓が大学4年生の現在に書く内容です。濃さ違うかもだけど許してね☆

 

今まで履いていた靴が入らなかったから母に連れられてサンダルを買いに行った時にも、日記に「疲れる」って書いてるけど、本当にもうただ移動するだけでも超絶疲れて。使い慣れていない松葉杖でそれでなくても危ないし、慣れても今まで何も考えずに歩けていた道も、滑りやすさとかが場所によって違うから考えて歩かないとコケるし、階段上るのなんて一苦労どころの話じゃ済まされないし。

 

松葉杖での初登校日は今でも忘れられません。

学校の最寄り駅でサンダルを電車に忘れちゃったんですね、怪我した方の足なんですけど落としちゃってたことに気付けなくて(冬だったからもこもこ靴下の上のサンダルで軽いし感覚ない)。電車内から「サンダル忘れてるぞ!」ってサンダルを電車外に投げられました。満員電車だったからそうするしかなかったのは分かるんだけど、なんかもうその時何とも言えない気持ちになっちゃって泣きかけた。

学校に着いたら友達に「可哀想」って泣かれて、みんなに心配してもらって嬉しいんだか悲しいんだかでした。

それ以降雨の日は母に車で送ってもらう(途中で雨に降られた場合はウィンドブレーカーをカッパ代わりにする)、晴れの日は今までより30分ぐらい早めの電車に乗る、という形に変えました。

 

ちなみに先輩の卒業式の時にピアノ伴奏(証書授与の時のBGM15分間)をする予定だったのですが、階段上がるのが松葉杖だと遅くなって進行に支障を来すからという理由で降板させられました。めちゃめちゃ悔しかった、けど一緒に対抗してくれた音楽の先生は忘れていないです。本当に感謝しかない。

 

自分自身意味分からんぐらいおじいちゃんおばあちゃんに話しかけられる質なのですが、知らんおばあちゃんに「可哀想ねえ」と言われたり、勝手にギブス触られたりしたことがあってちょっと普通に嫌でした。

帰宅時最寄駅から歩くのがしんどくて、バスで帰ろうとしたんだけどロータリー近くの手すりもないところで滑ったのめっちゃ覚えてる。1分ぐらい立てなかったのに誰も助けてくれなくて、みんな横目に通り過ぎていくだけでマジで人間不信になった。

ちなみに毎日滑ってコケてました。駅とかマンホールとかってツルツルしてるし雨になると余計に回数増えますからねえ、晴れの日でも3回ぐらい、雨の日だと5回はコケてた。

 

あと体育でレポートまで書かされたのに実技参加してないからと学年一低い評価つけられたことだけは忘れないですね、その成績さえあれば第一志望の学部に行けていたので(^^)

ちなみにあともう1つ、避難訓練のときにエレベーターを使ったのですが(階段降りることが負担だから)、その時に同乗した先生(どうやら皮肉を言うことがある程度カッコいいというか上から目線で良いと思ってる)に「あなたみたいな怪我人がこういう時1番逃げ遅れますからね」と言われたことも忘れてない。

大学附属の高校で第一志望だったし、ある程度の大学にエスカレーターで進学させてもらえたので感謝はしてるし結果的にはだいぶ良かったとは思うけど、今の記憶持ったまま生まれ変わって同じだけの能力あっても多分同じ高校には進学しません。そのぐらい傷ついたし、先生としてというか人間として正しい言動をすべきだと思うな未熟だなと心の奥底から軽蔑しています。

 

でも高校の先生にも優しい方もいて、自分が怪我した時に、担任でも顧問でも無かったのになぜか最後の最後まで傍で心配してくださって(意味が分からん、その人の授業みんな寝てたけど自分は起きてたからかも(?))、その後もエレベーターとかで「調子どうですか?」と聞いてくれていたおじいちゃん先生もいるし、めっちゃ声掛けてくれた警備員さんもいるし、怪我人がこの席におるぞ!と分かってから自分の列だけ間隔広くしてくれた用務員さん(と伝えてくれた担任の先生)もいるし。それ考えると良かったのかもしれん。感謝しかないです。

 

まあでも部活にサポート役として参加してもギブスあって松葉杖もあって邪魔にしかならないし(先輩方は邪魔じゃないよと言ってくれた、優しい)、毎日登校病院帰宅か登校部活帰宅かの生活でした。

 

心配してくれていた友達も気付いたら隣を歩いてくれなくなって自分だけ1人で置いて行かれながら行動することも増えて(部活の昼練で片付けしてたらみんないなくなって、体育館の真ん中でコケかけた時に「ここでコケても誰も助けてくれないし1人で立ち上がれないし終わりなんだな」と思った記憶がある)(友達について行こうとしてもコケかけて心配されたときにダサさを感じるからもう止めた)(人の隣を想像以上に間を空けて歩かないとただの邪魔ということもありめちゃパーソナルスペース広がった記憶ある、あんまり手繋いで歩くとかしなくなった)、家族にはお風呂の介助とかしてもらわなきゃ1人でどうにも出来ないのに「アンタが怪我したのが悪いんじゃん」と手伝ってくれなくなりました。

バドミントン部も自分が個人で1,2位取れるぐらいの自信があったのに無能になって、同期の子達がふざけながら部活をしてるのを見て「そんなヘラヘラしながら打つぐらいだったら怪我代わってくれや」と苛立ったりもしていた。

ちなみに2月に当時付き合っていた人から別れを切り出されてもうメンタルの大崩壊をします。もう何が生きてる楽しみなんだという気持ち。

 

毎日が死ぬほどきつくて、途中からそれまで書いていた日記を忘れたとかじゃなくて故意に書かなくなったことを覚えています。もう書いたって毎日一緒で意味ないと思ったから。毎日が辛すぎて書くだけで反芻させたくないなと思ったから。毎日が本当につまらなかった。

 

高校受験もそこそこ辛かったけど、高校受験は誰かに応援してもらえるのに対して、怪我って誰にも応援してもらえないから、みんな根底には「でも自分でやらかしたんだし」の気持ちがあるからなあと思っていました。生きている中で自分が「邪魔者」扱いされることが多すぎて、というか基本的にそうで、だからこそ生きている意味が分からなくなったし死にたいなと結構毎日の頻度で思っていました。でも死にたいなと思って窓から飛び降りようかなとか思っても、ギブスが重すぎて足が痛すぎて落ちれないじゃんと思って泣いたのを覚えています。

 

怪我をして椅子に座るのも寝るのも立つのもしんどいという状況に陥った結果、何事にも無気力になって(英語スピーチコンテストに限らずピアノ伴奏とか何でもやってみよう!の好奇心が強いタイプだった)何もしなくなりました。

ということで、それまで結構成績上位層にいたはずが恐ろしい程の転落をし、今考えれば鬱か何かだったのかもねぐらい死んだ顔をして毎日楽しくない生活を送っていました。

 

 

調子が上向きになったのはリハビリを始めてからです。3,4月ぐらいかな?日記にないので分かりません。

理学療法士さん達が自分の中での何よりもの味方でした。自分1人のためだけにリハビリルームの構造を歩きやすく変えてくれたり、名前とか覚えてくれたり、今日も来て偉いねとか成長したねとか言ってくれて本当に自分のホームでした。世の中全体がこんなあったかい場所になったら生きやすいのにと思いました。

リハビリの担当をしてくれていた方が菊地さんという方なのですが、菊地さんに関しては死ぬほどお世話になって、誕生日こそ覚えてはくれなかったものの、話を振ってくれて色んなこと覚えてくれて、自分が好きだと言ったback numberの曲を菊地さんが音楽を流す当番だった時には流してくれて、他の方ももちろんではあるんだけど、菊地さんがいてくれたから自分はこんなにも前向きに生きれるようになったんじゃないかなぐらい恩人。

 

4ヵ月経った5月頃に片松葉、5ヵ月経った6月に松葉杖からの解放でした。

ちなみに解放されてから先輩方の引退試合があったのですが、めちゃめちゃ気遣ってくれて懇意にしてくださってた先輩Aさんに「二足歩行で歩いてる」と言われたときめっちゃ嬉しかった~(私情)

 

最後のリハビリが8ヵ月経った9月上旬だったのですが、あれだけ早く治したいと言って週5回ぐらいは絶対通ってた(6回の可能性すらある)リハビリを卒業するのが悲しくて寂しくて、ここを出たら自分はまた1人で戦わなきゃいけないんだなと思って最後から2回目のリハビリ中に泣きました(なんでだよ)。

 

 

そんなこんなで自分の怪我人生活は終わりました。

 

スポーツ整形(競技しない人でもスポーツ整形に通うべき、家での筋トレ・ストレッチメニューも組んでくれて、スポーツ復帰までサポートしてくれた)に通ってはいたのですが、競技復帰した後も痛いなと思うことは(今でも)あります。怪我した右足首はあんまり角度曲がらないし。でも本当に感謝しかしてない。

家から電車で乗り継ぎ2回あって普通に大変だったけど、もっと近くの整形外科通ってたらまた結果が違ったんだろうなと思うので、そっちの方が結果は良くても自分は通ってた整形外科で正解だったなと思います。

 

 

ちなみに高校の最寄りのバス停(駅まで歩ける距離だけどしんどいからバス使ってた)前にホームセンターがあるんだけど、そこのおじさんでめっちゃ気に掛けてくれてた方がいて。怪我して10ヵ月後(もうバス使ってなかった)の文化祭準備期間にそのホームセンターに急用があったんですね、たまたまそのおじさんと話して、なぜか開店前のホームセンターの中に通してくれたんだけど(めっちゃ優遇してもらってるのおかしい)、帰り急いでたから走って帰ったんですよ。

んで時は進んで卒業前、あのおじさんにも感謝の言葉伝えに行こ~と思って会いに行って話したときに「実はね前来てくれた時泣いちゃって!」って言われて、「なんで?」って思ったら自分が走って帰った姿に「もう走れるんだ」となって泣いてくれたらしい。本当に恵まれてるなと思いました。ちなみにそのおじさんの教えですが「最終学歴で出来た関係性を大切にした方が良い」という話があります。布教しときます。

 

またちなみに、高校生の時、ジャニーズが好きだったのですが、母の実家に行くついでに大阪にグッズを買いに行ったとき、グッズまでの道のりが階段で、しかも混沌としてる並び列でした。

自分は上るの遅いから母に先行って!と言っていたのですが、その時に周りにいてくれた関西のジャニオタの皆さんが自分が「抜かしてください」というまで後ろでそっと見守ってくださって、しかもその後も元いた位置を譲ってくださって、めっちゃ申し訳ないけど嬉しかったのを覚えています。

しかもグッズとは関係なく関西の人はコケても大丈夫!?と声を掛けて下さって、関西の人は優しいということを自分は全力で信じています(絶対に関東にも優しい方はいるんだけどさておき)。

 

 

 

ということで(?)、掴み切れていない要点を挙げておきます。

 

・人に感謝出来る人になった

自分のことを助けてくれる人に対しての感謝の念がマシマシになりました本当に。自分は人に生かされている、多くの方がいてくれるからこそ自分が生きているということが心の奥底から分かった気がします。

自分も少しでも気遣いの出来る人間になりたいなと思います。

 

・信じられる人とそうではない人が分かった

めっちゃ失礼ですが文字通りです。学校で1人行動が増えたときに母に言われたことです。

自分が苦しい時に寄り添ってくれる人が自分にとって大切にすべき人だなと思います。もちろん大学から仲良くしてくれてる人にも感謝だけどあの頃から仲良くしてくれてる人にもあんなにめんどくさかったはずなのにマァジで感謝しかない。

 

・めちゃめちゃ寝るようになった

それまで車の中でも授業中でも一切寝ないタイプだったんですけど(車の中に関しては寝れなかった)、毎日疲れの度合いがレベチなので(常に運動量が人の数倍ぐらいある感じ)、ギブスと泣いてるので毎晩寝れない分昼間が凄く眠くなるようになりました。ちなみに今もこれは変わってない。強いて言うなら昼間も寝るけど夜もめっちゃ寝るようになったぐらい。

 

・1人行動が怖くなくなった

それまで典型的な集団行動系女子だったのですが、1人で映画館とか1人でカラオケ、ご飯とか何か諸々大丈夫になりました。1人も寂しかったけど、1人でいる楽さも学べた気がします。

 

・メンタルが鍛えられた

信じられる人とそうではない人の話とか1人行動の話ともちょっと似ていたりするかもなのですが、とにかくメンタルは強くなったなと思います。

自分が今まで信用していた人でもやっぱり怪我をしている自分に対しては面倒だと感じることだったり、修学旅行でとんでもない急角度の坂+階段を20分はかけて上ったときは体力的にもやられた(違)。けど逆の立場になったら当然だなって思う訳ですよね、自分がマイノリティーの世界なんだからしょうがない。地方自治体や企業も採算性の取れないサービスはやらんよなそりゃって感じです(?)。

結局人間は最終的には1人だし、最後信じられるのは自分なんだなということを死ぬほど学んだ気がする。

 

・可哀想と言わないで

可哀想と言われると自分が無条件に下に見られてるんだなって思うので、それが結構しんどかったです。自分としては足を怪我して松葉杖ではあるけど同じ土俵には立ててると思いたかったので、急に違うステージだということを突き付けられてしんどかった、何が正解かは分からないけど、共感とか大変なこともあるよねぐらいな感じで言ってくれるとありがたいなと思いました。

 

・何もしないこともサポート

怪我をして凄く感じたところなのですが、色々とこれやろうか?あれやろうか?という気持ちは引くほど嬉しくても、実はちょっと難しかったりもするという話もあります。本当に本当に嬉しいんだけど。

あと自分は松葉杖だったので、たくさん話したくても歩きながら話すと息が切れるからみたいな話もあった。

自分は何より自分が大多数とは一緒のように行動出来ないことがしんどさの大きな一因にあったかなと思います。色々提案してもらうことも重ね重ねお伝えさせて頂くように嬉しいのですが、当然のように隣を歩いてくれることもめっちゃめちゃ嬉しいよという話です。

 

 

 

話は変わります(え)。

 

進路を考えるときに自分も怪我とか障害を持った側の人を助けたいなという漠然としたものがあって理学療法士に出来ればなりたいなと思ったけど大学あるからさすがに進むかとなり、興味のあった学部の研究室は方向性が違い、広く捉えれば開発援助みたいなお話じゃないかと高校に教えに来てくれてる大学教授にアドバイスを貰い決めた第一志望学部も落ちという始末ではありました。

今の学部は何の興味も無いし4年目にしてやっぱ向いていないということも確信を持ち始め、という感じですが、大1に取った社会学が結構近しいものがあってバカ長いリアぺを教授に投げつけたりしたし、単位に入らない科目で障がい者雇用とか手話言語学とか、何に繋がるのか分からないけど取ったりしてたし、何かご縁があって知的障がいとか発達障がいとかで身体障がいではないのですが、障がい者支援ボランティア的な(そんな大層ではない)ものに参加したりしてます。

 

怪我がきっかけで割と話すようになった先生がいるんですけど、高校卒業時に「あなたは真っ直ぐすぎるからナイフを持ってる人とかが大学で増えた時に傷つくと思う、強く生きなさい」と言われました。ので、今は強く生きようとしています知らんけど。

将来は直接繋がるものではないけどちょっと関連性があるんじゃない?という観点もある業界に就職するつもりです。家族から猛反対されてますが。

 

大学で部活動をしたいなと思っていたりもしたけどそれはさすがに諦めました。

怪我をしたことはもちろん全く嬉しくないです。でも怪我してなかったらもうちょっとつまらない人生になっていただろうなと思うし、怪我したからこそ失ったものも多い分、怪我したからこそ得られたものも多いなと思えている今の状況がだいぶ幸せです。

 

 

 

ということで、長々と書き過ぎて約12,800文字ですが、最後まで読んで下さった方も、そうではない方も、ありがとうございました!!!!!

そして、菊地さんをはじめとして、支えてくださった沢山の方々、ありがとうございました!!!!!

2年も経てば人はある程度元気になる

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

 

就活解禁されて絶賛苦しみ中ですが、全く別の話を今日はさせて欲しい…!あんまり明るい話でもないかもしれないので、ん~って方は自衛でお願いします。

 

 

 

今日というかは私のおばあちゃんの命日です、2年前、私が大1の時に亡くなりました。

実はって話なんですけど、おばあちゃんは100%とは言えないけど99.9%ぐらいな感じで自らという形でした。

 

その年の年明けぐらいからおじいちゃんが転んで骨折とかになって、入院という状態だったんですよね、おじいちゃんとおばあちゃんは有り得ないぐらい仲が良くて(一緒にお風呂に入るぐらい)(マ?)、おじいちゃんのことがおばあちゃんはめっちゃ好きで。

おばあちゃんどうやら1回鬱?みたいなのになったことがあるらしくて(原因はよく分からん)、あんまりメンタルは強くはないんですよね、私がおばあちゃんと話したりしてた時にも、私が高校に受かった年には「おばあちゃん、もうこれで後悔なく死ねるわ!」と言ったりしてたし、多分心配性だったりするから根がそういう感じなんだと思う知らんけど(おい)(我が母も似てるからなんだかもう遺伝)。

だからおじいちゃんが1月年明けに入って入院しちゃったときからもうめちゃめちゃ泣いてて、電話してても泣いてるときあって、寝れないとか言ってて、週1ぐらいで電話してたんですよね。

これがそもそも2022年なんですけど、コロナでおじいちゃんおばあちゃん家に毎年春夏行くのに行けてなくて、この年はお姉ちゃんが「絶対行った方が良い」って言って行く予定だったんですけど、そのちょっと寸前に訃報って感じでした。

 

この頃バレーサークルとかでめちゃめちゃ忙しくて、電話出来なかったときとかもあって、おじいちゃんおばあちゃん家に行くのも調整って感じで、今思うと、もっと早く自分だけでもお金払ってでも行けば良かったなって思ったり、電話ももっとしておけば良かったなって思ったり、何が正解だったかは全く分からないけど勝手に後悔することがたくさんあります。だからこそ今は残業だったりが少なくてって会社目指してるんですけど(繋げていくゥ!)。

 

おじいちゃんもすぐこの後5月に急に容態が悪化という感じでした。なんかこういうのを見てると凄いなって思います。こんな一気に2人共で、多分運命とか生死とかなんか色々あるんやろうなぁと思いました。

 

ちなこの後おばちゃん家のワンちゃんもって感じで、この年の前半ちょいぐらいはマッジで凄かった。

おばちゃんがおばあちゃんが亡くなったときの第一発見者だったんですよ。今も力強くいらっしゃるのを見るとマッッッジでスゲェ…以外の感情が無いです。自分もそんな感じの人間になりたい。

 

亡くなったのを知ったのは、バレーボールサークルの大会中でした。母から何度も電話が来ていて、掛け直したらめちゃめちゃパニックになってる母がいて、泣き叫んでて、怖くなっちゃったのを覚えています。私も膝から崩れ落ちて泣きました。頭の中が正直めっちゃパニックで(もちろん早退なんだけど、上下関係厳しいのに慣れ過ぎて早退出来るのかな…と不安になった(そこだけ正常なのやめい))、冷静ではあったんだけど乖離した感情がそこにある状態でした。ちなその日学生証を落としてたらしくて、交番にも寄った(こんな日に何してんの)。

泣き過ぎてマスク濡れすぎて、マスクとティッシュを買って(なぜか写真撮ってた)(記録に残している場合ではない)家に帰りました。

 

姉は割と泣かないタイプだから割と大丈夫だったんだけど、母はもうメンブレの権化、ヒス親全国代表って感じだからもうやばかったですとりあえず。まあそうなるよなって話はあるんだけど、まあ大変そうだった。そこに空気の一切読めない父がいて(略)。

 

この後は法事で田舎に行って、が何往復も何回も続くことになる年でした。

これ以降、母が自らの年齢を気にするようになって「死ぬまでにやっときたいことをやっておこう!足腰大事だから運動しよう!」とかするようになりました。娘としては心配だし、もし自分が結婚して、父母が離婚して、母が1人になったらどうしよう…の感情は強くあります。まあけど図太く生きていくんかな、なら勝手にどうぞの気持ちなんだけど(失礼)。

 

 

 

私にとっておばあちゃんは結構何よりの味方でした。私の母とか姉とかとは違って「仁瑚ちゃんは頭も良いし」とか言って、めちゃめちゃひいきしてくれる存在でした。多分というかほぼ絶対、私の母は姉の方が好きで(お人好しだもんネ!)、父も分からんけど多分そうで。私は基本的に何しても素直に真っ直ぐ生き過ぎているせいで、なんだか損することが多いし、嫌われることもあるし、仲の良い友達はたくさんいるんだけど、世の中ってずる賢いなって思うことが多くて、何だか寂しいなと感じることが多いタイプです。なんだけど、おばあちゃんは私のことを1番って感じで接してくれてて、本当に心のよりどころでした。

普通に今ももちろんめちゃめちゃ寂しいし、後悔もあるし、自分には100%の味方はいないのかもな~と思うことは多いけど、なんだかんだ2年経つとカモフラージュされていくものなんだなとも思います。

今日だってそもそも気付いたきっかけは「懐かしい写真見てみよ~2年前とか何してたのかな~」だったので、え、これも運命…?(なんでもかんでもくっつけないで)

 

大1の3月の話だったので、その後の5月とか授業とか諸々大変だったし、何よりメンタルがぶっ潰れていました。よくあの1年は生きたなと思います。高1の1月にアキレス腱断裂したときは心底死にたいと思っていたんですけど、それと同じぐらいきつかったです。でもそれ以上に、私がしっかりしないと、しっかりしているように見えて姉も若干母に似ているからこの家族が終わる、という意識がありました。よくしっかり生きたよアンタ。

 

けど気付けば2年も経っていて、とりあえずは今はただシンプルに普通に元気だよって話です。味方がいたら嬉しいけど、おじいちゃんとおばあちゃんだけでも良い気がする。私は120歳まで生きるつもり満々なので、残り99年の人生だし、多分今生きてる家族も友人も見送ることになりそうですが(偉そう)(どこからの自信)、残念ながらギネスをもらって何かに自分の名前を刻んでからじゃないと死ねない。ということで、今後も元気に生きさせてください(懇願)。

 

 

最近色んな方の訃報を聞くことが多いな~と思うんですけど、人が生きる理由ってどこにあるんだろうと考えた時に、「他人を生かすため」っていうのがあるんじゃないかなと思いました。自分が生きているからこそ他の方を救えたりすることもあるんじゃないかなと思います。自分が生きているだけで意外と助かっている人もいるんだなということが学びです。「自分なんて」と思っている方もいらっしゃるかもしれませんがそんなことは絶対ないです。

私もちょっとの人助けぐらいの気持ちで、どうせ200年後には塵になってるんだろうし、気楽に生きてみようと思います。

近況報告~2024年2月2日~

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

 

ご挨拶遅れまくりですが、あけましておめでとうございます。

 

以前の更新からこれまた数カ月経ってしまったのですが、これまた状況は常に動いているもので、色々と環境が変わりましたので、プライベート面(?)と就活面からご報告を勝手にさせていただきます。

 

〇プライベート面

 

付き合っていた佐藤(仮称)と別れました!!!()

つら、しかも最後は向こうの既読スルーというか無視による自然消滅である。ハ???なめてんのか???という気持ちもありましたが、まあ普通に合わないなと思われたんだろうな、と。多分向こうからしたら時間を食う原因みたいな部分だったんだろうな、と思います。

え~大3なんですけど、まだ大学生活中の出会い諦めたくない。もったいなくない?あと1年あるのに?どうすんの?って話ではあるんだけど。誰か自分のことを愛してくれる人と付き合いたい。自己肯定感が上がる人と付き合いたい。

ということで、ダイエットを始めました。就活終わるまでに5キロ落としたい。いわゆる「華奢」な身体になりたいです。ちゃんと頑張りたい。

 

〇就活面

 

以前のブログでは不動産総合デべ・鉄道・エンタメ、みたいな話してたと思うんですけど、今はまたちょっと変わって、①鉄道(私鉄→JR)、②一応不動産総デべ、③金融(銀行・信託銀行・損保・信用金庫)、⑤ベンチャー・小売各1社になりました!

 

鉄道はやっぱり本当の意味でその土地の方々と一生付き合っていくっていう点でちゃんと地域創生というか、されている部分が良いなと思いました、あとデべはやっぱり性格がドギツい方が少なくないから難しいって話と、そこまで残業を大量にやってっていう形が別に理想ではないなって話もある。

金融はとにかくメガバンに受かった時点で私鉄2社に絞る予定でして、とにかく早くメガバンの内定が欲しいみたいな話はある。メガバンの内定さえあればもうどうにでも強気に出ます他切れる、全然デべも切ります。

というのも、デべを夏ガチっていたので、何となくインターンの最終選考まで行ったところがもったいないな…という話がありまして、そういう意味でデべを受けるかァ~という話です。

金融はとにかく安定だから、という理由のみで受けます。あと残業そんな大変そうじゃないし、っていう点で受けます。受かればもうバンバンザイ。内定をください、じゃないとワイは落ち着けんのや…。

 

26卒にアドバイスできるのなら、結構最初の段階から受けたいな~みたいなところの順位づけをした方が良い、ということ。自己分析をしたりしてランキングはどうとも動くと思うのですが、選考スケジュールを鑑みて就活は進めないと、結局年明けも内定はない自分みたいなのも存在する感じになっちゃうし、1社行ってやってもええかな~というところの内定を持つだけで、それ以下の優先順位の会社は落とせるっていうのは本当に大きい。

もうちょっと具体的に先輩方には就活を教えて頂きたかったなぁという気持ちはありますが、とりあえず前向きに頑張ります。

なんか…就活って難しくない…?

 

 

 

お久しぶりです、よいちょ仁瑚です。

 

 

 

毎度のことながらお久しぶりすぎるんですけど、4月に始めた就活ももういつの間にやら半年経ってしまいました。凄い苦しくて日々を過ごした記憶はあるんですけど、半年間過ごした記憶はありません(?)。

 

7月まではサークルという名の部活のようなものを続けながらでそもそも時間が全然なくて苦しかったのですが、今は少し余裕があるように思います。ただ、業界が決まっているようで決まっていないから苦しい。

 

現在見ている業界は、不動産総合デベロッパー業界・鉄道業界・エンタメ業界・金融業界です。

 

総合デベロッパーは、基本的に自分の興味のあるところしか見てない。

大企業だけしか見てないんだけど全然受かる気はしないです、どうしたら良いんだか…って感じ。何をしたら受かる!とか何をしたら落ちる!とかがないから苦しい。

あとデべってずっと定年まで続けられるんですかね、色々と不安なことしかなくて無理。残業とか実態分からんし。

 

鉄道業界は、JR東海JR東日本・東急株ぐらいしか見てない。鉄道1本は無理やなと思った、が、受かる気がしない。もう何もかも無理やん!こっちはこっちで働く場所がどんな感じなのかも気になる。

 

上記2業界が特に志望度高めなんですけど、普通に両方とも募集人員少なくて落ちたときにどうするのかが全然分からない。怖い。

 

エンタメ業界は松竹とか東映とか東宝とかのイメージ。広くて楽しそう。土日出勤とかなければ、ホワイトな働き方がしたいですあとお給料が少し下がってしまう感じがしてそこは懸念。

 

金融業界は信託銀行・都市銀行・地銀・政府系金融機関って感じ。

政府系金融機関とかならわんちゃん全然行くのあり、けど他3つはあんまり興味が湧いてない。

 

デべと鉄道とエンタメに絞りたいんだけど、滑り止めみたいなのをどうすれば良いのか全然分かってない。服とかスポーツ用品のメーカーにしようかなとか思ってます、あと塾は場所によっては向いてると思うからアリ。

 

 

 

とりあえずこの先残り8カ月間どうすればいいのか全然分かりません、が、頑張ります。

2023年(大体)上半期、蕁麻疹できて貧血になって散々

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

 

めちゃめちゃお久しぶりです、とってもお久しぶりです…。

 

12月からずっと音沙汰無しすぎてどういう!?って状態でしたが、まあ本当に色々ありまして、目まぐるしい日々を送っておりましたというか送っております。

 

何があったか整理するためのブログみたいなもんです、記録用です。

 

 

1月

 

前半は成人式でわっしょいって感じでした、ずっと成人式のために生きてきたようなもんだったのですが(どんだけ楽しみなんだよ)、成人式は袴を信じられんほど締められ(ガチで肺が2分の1しか機能してなかった絶対)、足袋で親指の付け根を痛めるという始末。足袋っていいんだけどそこからまた下駄履くから二重で靴履いてるようなもんなんよ…。しんどすぎて&同窓会があり即座に帰宅したためほとんど知り合いに会えませんでした。ちなみにはまっこなのですが、横浜市の成人式は6分割(だったはず)でした、どんだけ区切るねん…???

 

後半が怒涛で、テストとバンドサークルの合宿準備。学校の勉強、1ミリも興味なくてテスト前しか勉強しないので頭がすっからかんの自分、めちゃめちゃ詰め込んで勉強しました。毎日徹夜みたいなアホなことして、結局テスト前日には寝落ちしてしまうという本末転倒なことをした結果、2単位落としました、まあ1科目だしセーフ。

 

 

2月

 

バンドサークルの合宿準備に追われる。結構無能な旅行仲介会社さん(連絡が劇的におっっっそい)とルーズすぎるサークル員とろくに引き継ぎ資料も情報もない前任者と1人しかいない合宿係(自分)というオワってる構図で合宿4泊5日を回し切りました。さすがに疲労が凄すぎて、無能な旅行会社さんに「合宿終わったら熱出しそうだね」って言われたんですけど、

合宿終わった次の日がバレーボールサークル(普段から練習義務参加の半分体育会みたいな団体)の5泊6日の合宿だったんですねぇ………。

 

もう全然無理でした、っていうかバレーの方がしんどかった。というのも、合宿係がろくに何も準備せずに合宿に来てて。アホか!?!?!?って問いただしそうになった(やめとけ(^^))。

バンドサークルは我ながら完璧に準備したので合宿中はボケっとしててもあらゆる作業が進んで行った(しかし準備に追われて自分の参加するバンドの練習不足ゆえに睡眠時間平均1~3時間で練習してた)んですけど、バレーサークルは逆にこちら側が睡眠時間を削って進めなきゃいけない羽目になりました。バンドサークルの人達はほんわかしてるんだけど(レアケース)、バレーサークルの人達は結構ハッキリした性格の人が多くて、6日も一緒にいるとイライラも溜まってきて爆発させる人とか空気読まずに手伝わない人もいてて最悪の環境だった。バレーの方は飲みもめちゃめちゃ激しくて、ほぼ毎日飲みあったし、睡眠不足で情緒も不安定だし元からちょっとそれみはあったんですけどバッドに入って泣くという(初日?2日目と4日目にやった)。楽しかったけどそれ以上にアホしんどかったです。

 

ということで地獄の11日合宿を過ごしたワイ。

 

ちなみにオモロい話なんですけど、その次の日に応援してるアイドルの誕生日&別のグループだけど結構好きなアイドルのライブの当選があり、横浜から大阪までほぼ始発で日帰りしてるっていう(^^)

 

 

んで、蕁麻疹発症しました。

 

?????

 

 

3月

 

3月は全然大型連休というか全力で休む気でいてたんですけど、合宿で生み出した損失(合宿費で計10万は出してる)と1月のテストでバイト入ってなかったせいでまあシフト入れなあかんね…という。

 

大阪から帰ってきた日の夜からなんか身体が痒い気がしてて、乾燥かなとか花粉かなとか思ってたんですけど、痒みがどんどん酷くなってきてやっとこさ皮膚科行ったらストレス性の蕁麻疹でした☆(最悪)(ちな花粉はアレルギーじゃないそう、それは嬉しいけど!だけど!)

 

しかも3月は3月で卒業関連のコンパがサークル×2つ分あり、経済的に完全に終わりました。最悪だった、今でも思い出したくない…。常に睡眠不足で遊びも楽しめない状態でした。

 

 

4月

 

春休みが明けるのがもうめちゃめちゃ嬉しくて泣きそうだった(?)、ここら辺から割と本気で就活っぽいの始めました。

ちなみにライブにも行きまくった。東京ドーム2回行きました(なんでやねん)。

 

 

5月

 

就活の忙しさとバレーサークルの義務参加(授業と就活のときは休めるけど圧感じる)と治らない蕁麻疹とでバレーサークルを辞めるか4月末から悩んでたんですけどほぼ決心がつく。

 

今週の話なんですけど、めちゃめちゃ生理が今まで史上最悪レベルで酷くて、月曜は6:00(起床予定は8:30)(就寝は2:00前)に生理痛酷すぎて起きるし寝れなくなって結局しんどすぎて学校休むし、火曜は行こうとしたし生理痛マシになったんだけど数年に1回なる貧血になって、呼吸苦しくなって途中下車してトイレ行こうとしたんだけど立ちくらみ酷すぎて壁にぶつかり足もフラフラで膝から落ちて血出るわ大きいアザできるわ曲げるのも痛いわで、その後落ち着いてからまた行こうとしたんだけどしんどすぎてまた途中駅で降りて救護室で寝かせてもらうも寝れずに結局最寄りまでまた向かい、結局なんかもう歩くの無理な気がしてそのままUターン…という恐ろしい生活。

 

なんか先週まではまだ両立できるかなとか迷ってたんですけど、いよいよ早死にしそうでもう身体的に限界なんだな…と思ったので辞めようという決心がほぼつきました。

 

なんかまだ全然インターンだし選考全然2社ぐらいしかやってないのに無理な気がするし、自分やろうと思ったことは全部全力でやろうとしちゃうし、色んなところ気にしちゃうから精神的にも疲れるし、本当は4年間続ける予定だったけど体調崩しすぎて無理な気がします。あとサークル関連の費用は親が全然出してくれないから自分で稼がなきゃいけない=サークルに行けば行くほどバイトも入らなきゃいけなくなる悪循環なので、ほぼ就活1本に絞って本気出そうと思います。頑張ります…(இдஇ; )

 

 

このように2023年ほぼ上半期(6月入ってないけど)は怒涛で体調崩しまくりでした。バカは風邪を引かないっていうし、発熱は数年に1回あってもこんなに体調やばくなることなかなかないんですけど、まあだからこそ自分の上限を知った気がします。

 

ちなみに佐藤(前の記事参照、付き合ってる人です)は多分シングルタスク人間かつ就活そこそこガチ勢なので5月中は会えてないし今までもこんなスケジュール感の自分とそこそこ忙しい佐藤なので月1でしか会えてないため周りから死ぬほど心配されてもう別れた方が…?って言われまくってるのですが、まあこの前1回話し合いして、恋愛経験ない佐藤(そこまで遊んだりもしないからこんぐらいで良いと思ってた)とのスタンスの違いとか考えてることとか分かったりして、現状の解決策とかまあ見つけたし、自分も結構忙しいというか寝た方がいい気がするので週1ぐらいで電話してます、結構会うのに別に行きたい場所とか無い人達なので、個人的には結構現状満足、幸せです。

 

とりあえずインターン選考、死ぬ気で頑張ってそれなりに勝ち取りたい…!という気持ちが強いです、あと、サークルの大会が6月にあってそれ終わったタイミングで辞めると思う(というか大会後のタイミングじゃないと辞められない)ので、ちょっと遊んで(月2~3で抑えるのが目標)、バイトも入って(推しの先輩とたくさんシフト一緒に入りたい♡)(心底黙った方がいい)、お金に余裕を持ちながら寝るのが目標。寝たい!!!!!

 

また言いたいことがあったら昇華させるために出てきます。その時はまた読んでやってください…。

 

 

 

ここまで読んでくださった方も、そうでない方も、ありがとうございました!!!!!

あっしに彼氏ができたんだ(まじか)

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

 

題名の通りです。なぜか自分に彼氏ができました。まじか。いやまじか。人生で2人目です。前が中2の秋~高1の冬だったので、実に4年弱ぶりの彼氏である。ひっさびさに脳天突き抜けるような嬉しさで本当であれば色々な人に言っちゃいたいんですけど、それは普通に自分自身の倫理観に反するというか、自分的にのちのち後悔しそうなので辞めておきます。落ち着け、自分。ということでここに書かせて頂きます。

 

相手はどんな人なんだというと、何回かブログに出てきている佐藤です。あいつです。

 

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何回かというかめちゃめちゃ事細かに説明してて笑ってる、本人が見たらドン引きレベルだろうねぇ…。こっわ…。

 

中学の同級生(クラス・部活は違ってたけど塾のクラスが同じだった)で、高校はお互い同じ大学附属の高校に通い、共にエスカレーターで同じ大学に進学、今年4月にキャンパス内ですれ違ってから月1,2ぐらいのスパンで会っていたあの人です。うわ~現実味がないな~~~???

 

とりあえず何が起きたか説明させてもらうんですけど(勝手に)、とりあえずこのツイート見てもらってもいいですかね???

 

まあこういうことである、また会おうとか言った癖に誘ってくれなかったから(想定内)誘ったら断られたという。まあね?日付指定したからだったのかもしれないけども、全然ショックだったよね、このあと「残念だわ~」みたいな感じで送ったらスタンプ送られてきて絶望しました。これで意気消沈した。

 

11月は大学の文化祭があったし、1回距離置こうと思ったのもあってしばらく連絡取らなかった。文化祭準備日に2回見かけたし、文化祭本番にも1回見かけたけどもう自信も何もかも喪失していたので話し掛けませんでした(絶望の淵に追いやられとるやんけ)。

 

ただ、今後のことを考えた時に、LINEは続かないし、もう佐藤が会う気が無いなら告っちゃえ!という気持ちになります。

元々向こうは女子との関わりが全然ないっぽかった(中学の時もそんな感じだった)し、年齢=彼女いない歴でいいや~とか言ってたし、とりあえず恋愛に対する興味もなければ自信も無さそうな人でした。周りからは「仁瑚が告らないと多分向こうからは無いよ」と言われまくっていたし自覚もあったのですが、告った結果振られて良い友達の関係を壊したくはないという気持ちがだいぶありました。

ただ、もう今後が無さそうだなと10月に思い、どうせ散るんだったら自分の思い伝えてから散らないと、今後も友達として会う場合もそうじゃない場合も中途半端に気持ち引きずるな~と思いました。

 

11月末に空いてる日ない?と連絡を取ったら12月最初の木曜日を指定されました。

それからが非常に気が重かった。毎日ガチで気が重かったです。ちなこの話を知っている友達に「木曜に佐藤に会うんだよね」と言ったら「木曜○○ちゃんと飲む予定あるから来なよ!」と言われヤケ酒が確定しました。

ただ、1回夢で佐藤に告ってOKされる夢を見たんですよ、正夢になって欲しかったので誰にも言いませんでした。笑

 

そして本番当日。2限終わりに競技場のところで話すのが通例なんだけど前は向こうから連絡くれたのに何も連絡が来なかった。

まあ2週間弱前の約束なので覚えているか不安だったのですが、もう覚えていなかったらそんぐらいのことなんだろう!と思ってたので、こっちから「どっかいる?」って聞いてる時点で終わったな~と思っていました。

それから5分ぐらい連絡が来なかった。普通にベンチで半泣きだった。泣く寸前だった。あ~やっぱ無理だったんか~~~、と思っていたら向こうから「競技場のベンチのところにいる」と返信が来てこれはこれで泣きそうだった(なんやねん)。

数分落ち着いてから腹を括ってよっしゃ行くかとなった訳ですが、ベンチのところを見てもどこにいるかが分からん、何よりベンチの数が多すぎて分からん。いつも話してた辺りにいなかったので奥かなとか思いながら独り言言いながら歩いてたら後ろからトントンってされて振り返ったら佐藤。めちゃめちゃ心の準備出来てなかったのでガ~チで心臓止まるかと思った。めちゃ焦りました。

 

その後はいつも通り普通に話してたんですよ、別に恋バナとかはしなかったんですけど、まあ佐藤に彼女がいるかどうかも4月以降聞いていないということである、当初は「佐藤よりは早く彼氏作りたい!」とか思ってた癖に今では「佐藤と付き合いたい」とか思ってるもんだから世の中って難しい。意味分からん。

 

自分は地下鉄、佐藤は徒歩で帰宅するんですけど、なんか佐藤が地下鉄の改札前まで送ってくれたんですよ、いつもは地下に入る前のエスカレーターでお別れなんですけど、改札前まで来てくれたこと前に1回それあって、地下鉄入口付近にあるATMに寄る時だったんですけど。だから今回もATMに寄るんかな~とか思って、聞いたら「いや、地下くぐってでも信号の向こう側行けるから」って言ってて。

ここでじゃあって感じだったんですけど、「あ、あのちょっとさ」とどもる自分(振り返って自分に蛙化出そう)。本当は「何言っても友達でいてくれる?好きです。付き合ってください。全然無理だっていうのは分かってるんだけどこれからも仲良くしてね、また定期的に会おうね!」って部分まで言うつもりだったのに、めっちゃテンパった結果、「言いたいことあるんだけど」って言った後めちゃめちゃ一息で「これからも友達の縁切らないでね、好きだよ~って話なんだけど」ってとんでもなくフワッとかつ端的な告白をしてしまったのである。この文章、割と意味が分からない。

しかも面白いのが、これ改札前で告ってるって言ったと思うんですけど、最近地下鉄関係のボランティアか何かでおじいちゃんおばあちゃんがプラカード持って立ってて。その日はおじいちゃんだったんですけど、おじいちゃんの結構目の前で告ってるというカオスw 可哀想である。

ちなみに顔見て告ったかどうかも記憶が一切ない自分。告った直後の佐藤の顔が真顔一辺倒だったので(佐藤元からマスクしてる時相当笑った時以外はめちゃ虚無顔)(マスクの下だけ笑ってる可能性も無きにしも非ずだけど多分真顔)、ビビり散らかした自分は「はい!これだけ!以上!じゃあね!!!」と言い、佐藤の身体の向きを変えさせ背中を勝手に押し、さっさと清々しい顔で改札を通ったのであった…。いやどんな寸劇だよ。目の前で行われた告白の結果を知らされないおじいちゃんも可哀想だし、なぜか友人を見送るために遠回りしたのに勝手に告白されて帰られた佐藤も佐藤である。両者とも可哀想。どう考えても自分のせいです。大変申し訳ございませんでした。

 

ちな告った直後電車内で打ったツイート(プロのツイッタラー?)

 

ちなみに本当は「付き合ってください」まで言う予定が(前日に見た「告白のコツ」みたいなYouTube(草)でここまで言わないと結果何して欲しいのか分からないって言ってた)、なぜか中途半端に止まってしまったし、佐藤の真顔見てチキってしまったしで言い出せなかった自分、どのようにすれば良いかにかな~~~~~り戸惑い、その後のバイトを遂行する。バイト前に1回その旨送ろうとしたんだけど時間なさ過ぎて、無理やなとか思って結局送れなかった。

 

バイトが延びたせいで飲みの集合時間に間に合わない悲劇起こしてるのですが、電車の中で佐藤に「もし良かったら付き合ってくださいって話なんだけど、全然そんなことないと思うから、そのうち忘れてって話!これからも何卒!」みたいなトンデモLINEを送りつける。その時点でLINE来てなかったし、とりあえずやっぱ断られるならはっきり断られてからじゃないと踏ん切り付かんなぁ~と思った結果である。

 

まあその日は連絡が来ずだったので飲みに誘ってくれた友達たちとめちゃめちゃに飲んだ。超ヤケ酒だった。ご飯も美味しかったし飲み放題だったし、その子達めっちゃ飲む子だったし。1時間半ぐらいでジョッキ5,6杯は飲んだ。自分はいつも2,3杯なのでなかなかなもんである。梅酒ロックでさえもめちゃサラッとスピーディーに飲んでた。今思い返すとガチ恐怖映像です。

 

酔いはしたけどこの真冬に2駅分歩いたのでなかなか醒めました。ただ、終電あと1本だし、佐藤からの返信1人で待つの鬼畜過ぎるし、とりあえずメンタルがきつかったし、友達が家に上がらせてくれるというので上がらせてもらいました。本当に感謝。

ただまあ親にバレると面倒だなと思った自分は始発前の5時にその子の家を出て、徒歩で約30分で帰宅するという。尋常じゃなく寒かったです。ちなみに返信は来なかった。

 

金曜は英語のプレゼンも習い事もあったのに、プレゼン準備も宿題も何もかも終えてなかったので(友達の家でちょっとやらせてもらってた)2時間睡眠で1限に行って頑張りました。ちなみに前日の飲みにより初の2日酔いしてました。朝何もお腹に入らなかった(普段めちゃめちゃ食べるから衝撃)。そしたら1限の途中に佐藤からLINEが来た。iPadの通知を見たんですけどとりあえずあんまり記憶ないけど、「どっちだよ笑」「付き合おう」の2つ。もうこの際ツッコミなんていうのはどうでも良くて、手が震えたし、プレゼンの準備は止まったし、とりあえずテンパって昨日泊めさせてもらえた友達に連絡した。いやその前に通知無くなっちゃわないか心配でスクショした(徹底してる)。

友達からは驚きとおめでとうのLINEが来たし、自分は頭スッカラカンになりつつもプレゼン準備するし、1限終わりに母と姉のグルチャに連絡したら我が母と姉はテンパってるし、お昼もお腹空いてなかったけどなんか入れなきゃってなってマックフルーリーのオレオ(大好き)(食べるんかい)頼むし。

 

英語のプレゼン終わって1度帰宅してから落ち着いて考えてみてもまじか…のマインドしかなかった。反応に困りすぎて、家にいる時間も無さ過ぎて(サークルあった)、返信したのはサークルに向かう途中でした。なんで付き合おうって言ってくれたんだ?どういうテンション感?というのだけ懸念点でした。告られたから単純に付き合っとこうの可能性も十分にありえるな…と思っていたので、とりあえずなんで…?と聞きました。

 

それから返信が来たのはサークル終わり、新しく自分達が幹部代になって、練習メニューなどを話しているときでした。

「俺もいいなって思ってたから」「なにこれ」「クソ恥ずかしい」…(((可愛い)))

めちゃめちゃ気持ち悪いアホデカ感情が出てきてしまいました。なんやねんこいつ可愛いやんけ。そういう系統の人間なんか??? 致死量超えるかと思いました。早々に別れてしまったとしてもこの感情だけは間違いじゃなかったって言えそうです。

みんながいる前で見てしまったので普通にニヤけるところでした。ちなみにこの日は同期女子だけがいた状態だったんですけど、同期女子には言いました。そしたら「仁瑚が最初だとは思ってなかった」とみんなに本気で悔しがられました。それはそれで何とも()

 

ちなみに次の日結構朝早くから用事あったのに、いつも自分がお風呂出る前に母は寝ているのに、お風呂上がりもガッツリ起きてて、姉(結婚決まって既に家出てる)とグループ電話で事情聴取されました。めちゃめちゃ聞かれた。まあねえ女子校だったけど高校のとき彼氏ができなかったことを思うと大事件か…。

 

佐藤は普通に恋愛経験がほっとんどないっぽいし、多分自分が引っ張っていかなきゃ何も事が起きない気がしているのでかなり不安なのですが(振られる気満々でクリスマス2日間とも友達と予定入れ済)、とりあえずはハッピーかなという気持ちです。

 

中学の同級生と大学で付き合える世界線、サイコ~!!!

恋愛面での近況報告させてよ

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

 

なんだか2年になってから日常が忙しくて、今年の夏休みはもう信じられないぐらいドッタバッタでずっと外にいたし、ずっと何かしてました。留学の応募もしたんですけど、これが1番の原因です。ガ~チ疲れた。

 

 

 

んでさあ!佐藤との近況報告していいですか!?!?!?

今までの佐藤の記事は以下2つです。

 

yoichoniko.hatenablog.com

 

yoichoniko.hatenablog.com

 

ちなみに恋愛系の方向には一切進んでません、これだけ先に()

 

 

佐藤のお誕生日の方が先なんでLINEでお祝いして私の誕生日をアピールしたわけなんですけど、覚えてくれてて連絡くれたんですよ、そのタイミングで「夏休み暇だったら会おう!」って誘ったんですね、まあスタンプだけが来てほう~(結構スタンプだけのことが多い)って感じだったですけど。

 

夏休み入って8月誘ったんですよ、日程調整したんですけど、お互い行きたいところが無くてふざけて佐藤が言ったカラオケに決定したんですけど(冗談って気付いたのは当日本人に言われてから)、その後で佐藤が「この日バイトあった」って言ってリスケを要求してきたわけです(最悪)。実は6月にも1度体調不良を理由に空きコマに会えなくなってて、「もしや嫌われてる…?」って超不安だったのに余計に無理ンゴマインドになっちゃいました。

まあリスケしたんですけど、その連絡終わった後しばらく返信しなかったら向こうから「申し訳ない」って連絡がスタンプ来た10分後ぐらいに来て震えた。またリスケ!?って思ったら、日程1回ボツにしたことに関しての「申し訳ない」だったらしい。分かりづらい。

 

カラオケの日、会って「佐藤って世の中生きてる感じしないよねえ」とか言ってたら割とすぐに6月に食べ物にあたった話をされました。何の話!?って思ってたんですけど家帰ってから気付いた。6月にあった体調不良の話を彼はしていたんだ。難しすぎるやろ。

 

このときは佐藤が乗り気じゃないとずっと思っているので、前日の夜ぐらいにこの日のバイトを19:30から入れてしまうやばい人間だった訳なんですけど(そのぐらいモチベがダダ下がりだった)、カラオケもまあ普通に3時間かな~とか思ってたんですよ、ちなみに13:00集合。自分が人とご飯食べるのあんまり得意じゃないというか、人にご飯食べてるとこあんまり見られたくない的な思想なのでこうなってます。あと佐藤とカフェとか行ったら最高に気まずい気がした(おい)。

んで、3時間かなとか思ってたんですけど、佐藤が「フリータイムにする?」とか言い出したんですよね、マ???全然いいんだけども。

 

それでカラオケなんですけど、佐藤が思ってたよりもだいぶ歌が上手かった。対して全く歌が上手くない自分。申し訳ない。けどそんなに歌わなかった。5時間ぐらいいてたけど歌ったの10曲ぐらい。ただ、楽しいけど全然歌おうとしないからなんでだ?って思ってたら、佐藤の歌がうますぎて自分が漏らしちゃった「歌うの嫌だわ~」が原因だったらしい。「俺だけ歌おっか?」とか言ってくれたけどそこまで真剣に嫌がってたわけじゃないことを分かって欲しい。申し訳ないけどそんなにガチで捉えられてたんだって笑ってしまった。

 

どうやら佐藤は夜ご飯まで一緒に食べるつもりだったっぽくって、そこまでの気持ちがあったんだって衝撃だったんだけどまあバイトがあったのでそこそこに切り上げた。プリクラ撮りたいって言ったら了承してくれた。まじか。けどプリクラの知識というか、こんな感じなんだ~みたいな顔だった、1回ぐらい撮ったことあるらしい、撮影のときは最高にへったくそだったしめちゃめちゃめちゃめちゃ楽しそうに落書きしてたの最高に面白かった。

その日はこれで終わりだったんだけど、「9月空いてる?」的なことを聞いてしまいもうそろそろ好きバレもいいとこすぎる。自分に蛙化でもしそうだわほんとに。

 

 

 

9月も自分から誘ったんですよねえ、自分がだいぶドッタバッタしてて、行くところが前日にやっとこさ決まるという。却下されるとは思うけどピューロランド行きたいんだよねって言ったら却下されました、ただピューロランドが何か知らなかったらしい、会った時に「サンリオピューロランド」ってフルネームで言ってて本当に知らなかったんだなとか思った。

 

夏終わる前に海見ときたいって自分が行ったからなんですけど、鎌倉になって、まあお昼食べるっしょみたいな時間に集合したんですよ、普通鎌倉でしらす丼とかじゃないですか、意味不明な佐藤は「最初に海行くか」って言いだした。おかしいやろ。爆笑でしかない。写真撮る時結構ぴったりつかれてびっくりした。その時貝殻くれた。海から歩いてるとき貝殻持ってたら「捨ててなかったの?」ってバカにされた。なんで捨てる前提でもらうんだよ。

車道側歩いてるときに車にぶつかりそうだったらしくて、そしたら「ちょっと、こっち寄りなさい」って言いだして、1列で歩いたよねありがたいけど言い方が面白すぎる。ちなみにそのときに中学の同級生が垢抜けたって話になったんだけど、佐藤がその子のこと元から可愛かったけどねって言ってて無事にメンタルがやられた。無理だ。

 

ちなみにその後訳分からないんですけど、江の島で江ノ島神社行って(この後やることなくなって1回「帰る?」って言われた)、辻堂で辻堂海浜公園行きました。歩いてる途中に「歩くの速かったら言って」って言われた。びっくりした。

 

っていうかおかしすぎる。1日に何カ所行くんだよ。辻堂海浜公園、自分が昔超好きだったところなんですけど、チャリめっちゃ乗れるところなんですけど、そこが休みだった。おい。そんでまた海に行って水切りしたのあまりにも謎過ぎる。

 

その後地元のカレー屋さんでカレー食べたんだけど、向こうは調子に乗って倍量ぐらい頼んで、途中で本気でリバースしそうになってた。お酒じゃなくてカレーでリバースしそうになってるの、申し訳ないけど最高に面白かった。っていうか佐藤、何してても本当に面白い。食べてるのも面白い。佐藤とカレー食べてるのとかカオスすぎる。

 

帰りのときになんか地下鉄の入り口のエスカレーターのところまで送ってくれて、留学の話してたから結果分かったら教えてよって言われたんだけど、反射でそれ遠くない?って言っちゃって、そしたら10月会おうって言ってくれたよね、声掛けてください自分では勇気が出ない(今までの会う予定全部自分から)。

 

 

 

8.5割ぐらいの可能性で普通に向こう側からして「ナシ」だと思うんだけど、まあ自分から押すしかないのは分かってるんだけど、それでもなんだか良いことないかなぁ~の気持ちですね、最後に1個、自分が言いたいこと言わせてもらうんだけど、鎌倉のときに思ったんだけど、めっちゃ良い匂いなんですよねぇ、以上です(自分最高に気持ち悪くて無理)。