どこまででも行けるから

ちょっとまだ何書くか決めてませんが、真面目なことも、つまらんことも書いていこうと思います。

右脚アキレス腱断裂で学んだこと

※高2か高3(2019,2020年頃)に書き始めた内容の続きを大4(2024年)になって追記した状態なので表現の古さが目立ちますアハ。時空超えすぎやろ。

※っていうかいつもとテイスト違うやんけというか全然久しぶりやんけと思った方々、お久しぶりです。就活が終わりました…!!!フゥ!!!

※とは言いつつも、このブログを開設した最初のきっかけが、自分の経験を発信して少しでも多くの方に生きる希望を持って欲しいな的な壮大なものだったので5~6年の時を経て遂に目標達成です。おめでとう、ありがとう。

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

実は私、以前右足アキレス腱断裂をしておりました。ということで、今回はアキレス腱断裂についてお話させていただきたいと思います。

 

 

 

私は昔からかなりの泣き虫で、母にひたすら泣くなと言われ続けていました。

(しかしながら良く言うとアクティブすぎて小学生時代のあだ名が「キックボクシングの元世界チャンピオン」だった話はまた今度…)

 

 

でも中学に入ると一応メンタルは鍛えられていました。

ちなみに中学生のときの部活はバレーボール部でした。ポジションはリベロ、サーブもアタックも打たない守備専門の人間ですね。

 

バレーボール部は、平日は当然毎日(外練で雨の時は雨のかからないところで)練習、休日ももちろん練習、ちなみにほぼ毎週末練習試合もありましたね、学校の体育館が取れなかったときは休みかと思いきや、「○○中に練習試合できないか聞いてるから!」って、先生がめちゃくちゃバレーが好きでした。ちゃんとした休みは年末年始の5日間とお盆休みのうちの数日間とまた数日。合宿も行きました。

 

まあ中2から顧問の先生変わっちゃってこれまた違う意味で大変だったって話は置いときます、ちなみに中3頃になると新しい顧問の先生も飽きたのか月1で休みがありましたね、それはそれで嫌だったけど。

 

 

中学時代の怪我は、指の剥離骨折とか捻挫。そのうち骨折、捻挫しても動かせるやん、となり病院にも行かなくなった(問題発言)。

簡潔に言うとアキレス腱を切るまでは結構健康体でした。とにかくタフすぎた。

 

 

そして引退後は英語のスピーチ大会に出てみたり、受験勉強で大号泣感謝祭を毎日開催してみたり、これはこれで大忙しでしたね、とにかく受験は大変だった、こんな一言じゃ言い表せないし、とんでもない感謝の念があるから何にも言えなくなっちゃうけど。

 

 

 

高校に入った私の周りには同じ中学出身の人は誰もいませんでした、こういう時はぴえんっていうのが正解ですかね、ぴえん。

元からちょっと緩い部活にしようとか思っていたし(毎日部活は家から学校が徒歩な訳じゃないし辛いなと)、特に意思はなかったから仲良くなった子と同じ部活に入ろうと思っていました、チキンやな。まあ結構人見知りなんで、ちなみにクラス替えが本当にメンタルによろしくない。

 

ってなわけで友達に誘われるがまま、バドミントン部に入りました、中学の時友達と5回打てて喜んでた身だけど。2.5往復です。ヤヴァイ。

 

 

バドミントン部は放課後練習は週3日。というか私の学校自体部活にそこまで力入れていない学校だったらしいと後で気づきました。

ですがそんな簡単ではない部活生活、上下関係が厳しかった…!(ちなみにこれは後で「先輩大好き!」となるアレです。例外ではない。)中学の時も上下関係厳しい部活に所属していた私的には勧誘の時点で「あ、これ厳しい感じやな」と感じていたのですが、みんなは「まさか…!」って感じだったっぽい。ちなみにこれもチキって先に言えなかった、ごめんって。

 

 

入部して夏休み最後の合宿が終わるまでは素振りとサーブとクリアーっていうの以外全部筋トレ。素振りはもうとんでもなくさせられるんですけど(言い方)、それ以外でラケット触れる時間は全体の7分の1あったかな~ぐらい。手押し車とかきつかったな~。

でもそんな私、まさかの高1の夏、無双します。え?なんでかって?

そりゃ私、トレーニング系大得意だったから。

 

 

レーニング系は中学のバレー部でやってたのがほとんどで、アザラシ(のけぞった状態で手だけで進むやつ、調べたら出てくる気がしています)とかもう大得意。速いから先頭行かせてもらってました。いやこんなのどんなマウント?もはやマウントも取れてないなこれ。でも、ほとんどの人が泣いていた夏合宿で泣かなかったのはかなりの自慢。だって中1の時地獄の夏合宿経験してるから。合宿っていうのはメンタルの電源切らないといけないんだってその時学んでたから(おかげさまで中学の夏合宿の記憶はない)

 

ちなみにハードル走のテストで1個以外全てのハードルを倒し、創作ダンスのテストでは欠かさず笑われ、中3になってやっと短距離走の「腕を振る」の意味が分かった(それまで勘違いして肘振ってた)ぐらいの私は、中学のマラソン大会160人ぐらいの女子の中で16位?19位?どっちか忘れたけどそんなもんだった。これは多分ずっと言い続ける。あと中3の体育選択で長距離取ったけど、陸上部の女子の後ろにピッチリついて行って先生にめちゃ褒められた。まじで得意だった。

 

そんで高校では辛くなったら涼しいところで休憩していいよっていうルールだったんだけど(中学の時は暗黙の了解でそんなの相当じゃないとダメだった)、学年の中で唯一休まなかった。

 

とまあここまで来たら分かると思います。もしかしてコイツ、根性しかない???

バレちゃいましたか、実は私根性はそこそこにあるんですよ、人並みに。でもそれ以外は他の人より足りてない。きっと欠けまくってる。すまん。

 

 

でもこの頃になると思うんですね、バドミントン楽しい?って。

実は最終的に中3の引退試合の頃にはスタメンを外されていた私なんですが(けどこれに関しては納得いってない)、高校ではだからこそ引退試合時には絶対スタメン入りするっていう目標は立てていました。

 

そんなこと言っても冗談誇張抜きでめちゃめちゃ下手クソだったので(何より夏合宿の最後までというか秋ごろまでサーブまともに入ってなかった)家で素振り練習したりしていたりしてたおかげか、練習抜けないおかげかクリアーが上手く出来るようになったもんで、バドミントン、好きだなぁと思いました。

 

 

そんなこんなで秋のダブルス決め。これはもう話すと本題ずれまくりなので詳しくは申し上げませんがダブルスもしたかったけど、シングルスになった。これが結論です。

 

元々シングルスに興味があったし(団体競技のバレーボールをしていたからこそ)、シングルスって自分の頑張り次第で下手にもなるけど上手くもなれるじゃないですか。自分の努力がそのまま反映されるのってバレーと違っていいな~って。

 

シングルス生活は本当に軌道に乗っていて、めちゃめちゃ楽しかったです。超楽しかった。先輩相手にいい試合できた時は嬉しかったです。

この頃から練習ごとに反省ノートを書いていたのですが(中学の部活で事あるごとに練習ノートを書いていたことを思い出して)、試合の記録も良くなっていて充実していました。

 

 

でもね、冬休み、急に転機が訪れます。先輩とダブルスを組ませて頂けることになりました。

 

ごめんなさい、は?ってなりましたよね、すみません。でもこの先輩のペアの方が部活を辞められて他の方経由で組んでみない?と。先輩と組ませて頂けることによって色々教えていただける!ってなったんですよ。

 

そんな感じで組ませていただけることになった冬。ちなみにダブルスは初心者でした、文句言わず優しく教えてくださった先輩には頭が上がりません。もう下手すぎるし頭がアホすぎてダブルスの動き方理解出来なさすぎたもんで、反省ノートはカオスでした。スランプだったけど、とにかく毎回目標を立てることが大事!と思って必死でした。毎回練習終わりにはダブルスの攻め方、守り方、どこにどんなシャトルを打てば決められるのか、とにかく書きました。

その努力が実ってか、ちょっとダブルスでも勝てるようになったりして手ごたえを感じてきた冬。悲劇は急に訪れました。

 

 

冬休みが明けた1月のその日はホームルームがあったので各自で準備運動でした。この日のことはパニック過ぎてもうあまり記憶に無いのですが、先輩の方が先にアップが終わっていたか、早くシャトルが打ちたくてかそこまでちゃんと準備運動をしたかと言われるとうなずけません。

 

この日は1週間の中で1番長い時間練習できる曜日でした。最後の試合形式の練習で先輩方のペアに当たりました。主将・副将の先輩ペアで、めちゃめちゃ上がり症の私はいつも試合前から縮こまってしまう方々でしたが、今日こそは自分の実力発揮するぞ!という心持ちでした。

その試合は本当に調子が良くて、得意のドロップも決まったり、いつもだと押されてばかりだったのにいつもより競れていました。

私の前方にシャトルが落とされました。あ、取らないと、と思ったその時。

   バンッ

 

耳元で音がしました。え?何?何の音?

前につんのめる形で転んでいました。その後に聞こえてくるのは一緒に試合をしていた先輩方の「どうした?大丈夫?」という声。
何自分しゃがみこんでんだ、早く立ち上がらないとやってくださってるのに迷惑じゃん。立ち上がろうとすると、右足のかかとに激痛が走りました。

何度か立ち上がろうとしても痛みが強すぎて立ち上がれない。なんで?どういうこと?

とてつもなくハードな夏合宿でも泣かなかった私が高校の部活で初めて泣いたのがこの時でした。とにかくやばいことをしたことだけは分かっていた。

周りにはみんな集まってくださって、同級生が氷とか足を上げるための箱を用意してくれたりした。でも靴を脱がせようと靴を引っ張ってくれたら(私の負担が少ないと思っての事)それはそれは痛くて。靴紐解くのにも足首が痛くて。とにかく私はなんで痛いの?これは何?とか言う感情や、先輩と試合させて頂いていたのにこんな部全体を巻き込むようなことをさせて申し訳ないという気持ちで完全に1人でパニック、ただ泣いてしまっていた。

夏の時に私に「体力あるね」と言ってくださった先輩がいて(Aさん)、その方が私に「どんな感じ?」と聞いてくださったときに「足を倒したら角度が行き過ぎて(曲がりすぎて)バンッて音がしました」って言ったこと、その時にAさんが顔をしかめていたこと(ちなみにこの後もめちゃめちゃ気にかけて下さった本当に頭上がんない)ぐらいしか覚えていません。

その後車いすで保健室まで運ばれるときにもみんなに注目されて(そりゃそう)恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちで俯くしかなかったのを覚えています。

 

保健室に運ばれて母に電話しました。というのも、私の状況的に病院に行かないといけない、親に迎えに来てもらえるように連絡して、と言われたからです。私が今までこういう大怪我をしたことが無かったからでしょう、パート中の母は「今仕事中だから無理」と言いました。いやいやいやいや落ち着いて?この時は思わず言ってしまいましたね。というかまったりしている母にが怖くなって泣き叫びました。「そういうレベルの怪我じゃないのよ!迎えに来てもらわないと家に帰れないの!今歩けなくて車いすに乗ってるの!」 さすがにやばいと気付いたらしいです。途中で仕事を切り上げると言ってくれました。(安心)

 

ソファのある部屋で保健室の先生、顧問の先生に看取られて(嘘です、見守られてですね)、周りにも色々な先生が心配して来て下さいました。担任の先生からは抹茶のキットカットの大袋を貰い、顧問の先生からはピザまんとみかんを貰いました。

顧問の先生と果たしてこれ(怪我)は何なのかって話をしていて、肉離れかアキレス腱断裂じゃないかと言われました。肉離れだと全治3週間、アキレス腱断裂だと3ヵ月はかかると言われました。2月には初めての大会が控えていた私は「お願いだから肉離れであってくれ…」と心の底から願っていました。というか3週間だともうほとんど間に合わないと同然だから、「出来ればもっと早く治ってくれ…」と泣きながら思っていました。

 

怪我したのが16時半か17時前で、18か19時頃だったかに母と父が学校に来た気がします。母が車で高校まで来るのは困難だったので父にも仕事を早めて来てもらったらしい。

20時頃かもう少し遅い時間だった気もしますが、そのくらいにやっと病院に行けました(その病院はめちゃちゃんと診てくれるんだけどその分かなり時間が掛かって、1人につき1時間近くかかるらしい、そして病院は狭いから学校で順番待ちをさせてもらえたということ)。タクシーで学校から病院まで送ってもらう感じです。

 

病院での診察はシンプルに痛かったです。よく分からないけど触ったところ全てが痛い感じ。その時は泣くのを割と耐えていた気がしますが、病院の先生の話で泣き崩れてしまいました。私の怪我は全治半年の右脚アキレス腱断裂でした(ちな完全断裂)。

もうあまりこの日のことは覚えていなくて、私はずっと涙が止まらなくて、看護師さんからティッシュを貰って、でもそのティッシュも一瞬で涙でグシャグシャになっちゃって、色々やった後に松葉杖の練習をして、意外と松葉杖を扱うのは難しくて、でも右足をついたら激痛に襲われるから本当につけなくて転びそうになって、少し歩いたり階段を上ったりするだけでも恐ろしいほどにしんどくて、でも最後に病院の先生が「また来てね」みたいなことを軽く言ってくれて少し気持ちが楽になったような気がして…という感じでした。診察が終わったのは確か22時前でした。

 

学校から病院まで父が車で迎えに来てくれていたのでそれに乗って帰宅しました。帰りに姉に電話しました。確か姉は彼氏の家に泊まっていた様な気がします。姉には絶対に馬鹿にされるだろうと思っていたので空元気のみで話しました。

先輩にメールを送りました。後日見たら先輩のお名前を打ち間違えていて本当に申し訳なかったのを覚えています。本来であれば怒られて当然の話なのですが、何も触れずに気にしないでいて下さった先輩の優しさを感じました。

 

次の日学校があったのですが、顧問や担任の先生、親からも言われてしまい休むことになってしまいました。私はひそかに皆勤賞を狙っていたから結構悔しかったと同時に、もうこれ以降は何回でも休んでいいんだ~とか思っちゃったり。この日のことは結構覚えています。

とにかくよく寝た状態で、足を上げていなさいと言われたので、自室で延々寝かされて、教科書で脚を上げさせられていました。非常にこの態勢がきつかった。だって上げてる脚ってギブス着けてるんですよ、教科書の上なんて狭いし硬いから落ちそうになるけど、落ちたらとんでもなく響いて痛いので絶対に落とせない。クッションの上かに載せれば良いかもしれないけど、クッションの上だとギブスが重いから胸より上には上がらない。空は結構晴れているのに、どうして自分はこんな所で寝転がらないといけないんだろうと、どうして自分は風邪を引いたわけでもないのに学校を休まないといけないんだろうと泣いた記憶があります。

 

 

ここで一瞬失礼しますが、ここまで↑が高校生の時に書いた内容です、これ以降↓が大学4年生の現在に書く内容です。濃さ違うかもだけど許してね☆

 

今まで履いていた靴が入らなかったから母に連れられてサンダルを買いに行った時にも、日記に「疲れる」って書いてるけど、本当にもうただ移動するだけでも超絶疲れて。使い慣れていない松葉杖でそれでなくても危ないし、慣れても今まで何も考えずに歩けていた道も、滑りやすさとかが場所によって違うから考えて歩かないとコケるし、階段上るのなんて一苦労どころの話じゃ済まされないし。

 

松葉杖での初登校日は今でも忘れられません。

学校の最寄り駅でサンダルを電車に忘れちゃったんですね、怪我した方の足なんですけど落としちゃってたことに気付けなくて(冬だったからもこもこ靴下の上のサンダルで軽いし感覚ない)。電車内から「サンダル忘れてるぞ!」ってサンダルを電車外に投げられました。満員電車だったからそうするしかなかったのは分かるんだけど、なんかもうその時何とも言えない気持ちになっちゃって泣きかけた。

学校に着いたら友達に「可哀想」って泣かれて、みんなに心配してもらって嬉しいんだか悲しいんだかでした。

それ以降雨の日は母に車で送ってもらう(途中で雨に降られた場合はウィンドブレーカーをカッパ代わりにする)、晴れの日は今までより30分ぐらい早めの電車に乗る、という形に変えました。

 

ちなみに先輩の卒業式の時にピアノ伴奏(証書授与の時のBGM15分間)をする予定だったのですが、階段上がるのが松葉杖だと遅くなって進行に支障を来すからという理由で降板させられました。めちゃめちゃ悔しかった、けど一緒に対抗してくれた音楽の先生は忘れていないです。本当に感謝しかない。

 

自分自身意味分からんぐらいおじいちゃんおばあちゃんに話しかけられる質なのですが、知らんおばあちゃんに「可哀想ねえ」と言われたり、勝手にギブス触られたりしたことがあってちょっと普通に嫌でした。

帰宅時最寄駅から歩くのがしんどくて、バスで帰ろうとしたんだけどロータリー近くの手すりもないところで滑ったのめっちゃ覚えてる。1分ぐらい立てなかったのに誰も助けてくれなくて、みんな横目に通り過ぎていくだけでマジで人間不信になった。

ちなみに毎日滑ってコケてました。駅とかマンホールとかってツルツルしてるし雨になると余計に回数増えますからねえ、晴れの日でも3回ぐらい、雨の日だと5回はコケてた。

 

あと体育でレポートまで書かされたのに実技参加してないからと学年一低い評価つけられたことだけは忘れないですね、その成績さえあれば第一志望の学部に行けていたので(^^)

ちなみにあともう1つ、避難訓練のときにエレベーターを使ったのですが(階段降りることが負担だから)、その時に同乗した先生(どうやら皮肉を言うことがある程度カッコいいというか上から目線で良いと思ってる)に「あなたみたいな怪我人がこういう時1番逃げ遅れますからね」と言われたことも忘れてない。

大学附属の高校で第一志望だったし、ある程度の大学にエスカレーターで進学させてもらえたので感謝はしてるし結果的にはだいぶ良かったとは思うけど、今の記憶持ったまま生まれ変わって同じだけの能力あっても多分同じ高校には進学しません。そのぐらい傷ついたし、先生としてというか人間として正しい言動をすべきだと思うな未熟だなと心の奥底から軽蔑しています。

 

でも高校の先生にも優しい方もいて、自分が怪我した時に、担任でも顧問でも無かったのになぜか最後の最後まで傍で心配してくださって(意味が分からん、その人の授業みんな寝てたけど自分は起きてたからかも(?))、その後もエレベーターとかで「調子どうですか?」と聞いてくれていたおじいちゃん先生もいるし、めっちゃ声掛けてくれた警備員さんもいるし、怪我人がこの席におるぞ!と分かってから自分の列だけ間隔広くしてくれた用務員さん(と伝えてくれた担任の先生)もいるし。それ考えると良かったのかもしれん。感謝しかないです。

 

まあでも部活にサポート役として参加してもギブスあって松葉杖もあって邪魔にしかならないし(先輩方は邪魔じゃないよと言ってくれた、優しい)、毎日登校病院帰宅か登校部活帰宅かの生活でした。

 

心配してくれていた友達も気付いたら隣を歩いてくれなくなって自分だけ1人で置いて行かれながら行動することも増えて(部活の昼練で片付けしてたらみんないなくなって、体育館の真ん中でコケかけた時に「ここでコケても誰も助けてくれないし1人で立ち上がれないし終わりなんだな」と思った記憶がある)(友達について行こうとしてもコケかけて心配されたときにダサさを感じるからもう止めた)(人の隣を想像以上に間を空けて歩かないとただの邪魔ということもありめちゃパーソナルスペース広がった記憶ある、あんまり手繋いで歩くとかしなくなった)、家族にはお風呂の介助とかしてもらわなきゃ1人でどうにも出来ないのに「アンタが怪我したのが悪いんじゃん」と手伝ってくれなくなりました。

バドミントン部も自分が個人で1,2位取れるぐらいの自信があったのに無能になって、同期の子達がふざけながら部活をしてるのを見て「そんなヘラヘラしながら打つぐらいだったら怪我代わってくれや」と苛立ったりもしていた。

ちなみに2月に当時付き合っていた人から別れを切り出されてもうメンタルの大崩壊をします。もう何が生きてる楽しみなんだという気持ち。

 

毎日が死ぬほどきつくて、途中からそれまで書いていた日記を忘れたとかじゃなくて故意に書かなくなったことを覚えています。もう書いたって毎日一緒で意味ないと思ったから。毎日が辛すぎて書くだけで反芻させたくないなと思ったから。毎日が本当につまらなかった。

 

高校受験もそこそこ辛かったけど、高校受験は誰かに応援してもらえるのに対して、怪我って誰にも応援してもらえないから、みんな根底には「でも自分でやらかしたんだし」の気持ちがあるからなあと思っていました。生きている中で自分が「邪魔者」扱いされることが多すぎて、というか基本的にそうで、だからこそ生きている意味が分からなくなったし死にたいなと結構毎日の頻度で思っていました。でも死にたいなと思って窓から飛び降りようかなとか思っても、ギブスが重すぎて足が痛すぎて落ちれないじゃんと思って泣いたのを覚えています。

 

怪我をして椅子に座るのも寝るのも立つのもしんどいという状況に陥った結果、何事にも無気力になって(英語スピーチコンテストに限らずピアノ伴奏とか何でもやってみよう!の好奇心が強いタイプだった)何もしなくなりました。

ということで、それまで結構成績上位層にいたはずが恐ろしい程の転落をし、今考えれば鬱か何かだったのかもねぐらい死んだ顔をして毎日楽しくない生活を送っていました。

 

 

調子が上向きになったのはリハビリを始めてからです。3,4月ぐらいかな?日記にないので分かりません。

理学療法士さん達が自分の中での何よりもの味方でした。自分1人のためだけにリハビリルームの構造を歩きやすく変えてくれたり、名前とか覚えてくれたり、今日も来て偉いねとか成長したねとか言ってくれて本当に自分のホームでした。世の中全体がこんなあったかい場所になったら生きやすいのにと思いました。

リハビリの担当をしてくれていた方が菊地さんという方なのですが、菊地さんに関しては死ぬほどお世話になって、誕生日こそ覚えてはくれなかったものの、話を振ってくれて色んなこと覚えてくれて、自分が好きだと言ったback numberの曲を菊地さんが音楽を流す当番だった時には流してくれて、他の方ももちろんではあるんだけど、菊地さんがいてくれたから自分はこんなにも前向きに生きれるようになったんじゃないかなぐらい恩人。

 

4ヵ月経った5月頃に片松葉、5ヵ月経った6月に松葉杖からの解放でした。

ちなみに解放されてから先輩方の引退試合があったのですが、めちゃめちゃ気遣ってくれて懇意にしてくださってた先輩Aさんに「二足歩行で歩いてる」と言われたときめっちゃ嬉しかった~(私情)

 

最後のリハビリが8ヵ月経った9月上旬だったのですが、あれだけ早く治したいと言って週5回ぐらいは絶対通ってた(6回の可能性すらある)リハビリを卒業するのが悲しくて寂しくて、ここを出たら自分はまた1人で戦わなきゃいけないんだなと思って最後から2回目のリハビリ中に泣きました(なんでだよ)。

 

 

そんなこんなで自分の怪我人生活は終わりました。

 

スポーツ整形(競技しない人でもスポーツ整形に通うべき、家での筋トレ・ストレッチメニューも組んでくれて、スポーツ復帰までサポートしてくれた)に通ってはいたのですが、競技復帰した後も痛いなと思うことは(今でも)あります。怪我した右足首はあんまり角度曲がらないし。でも本当に感謝しかしてない。

家から電車で乗り継ぎ2回あって普通に大変だったけど、もっと近くの整形外科通ってたらまた結果が違ったんだろうなと思うので、そっちの方が結果は良くても自分は通ってた整形外科で正解だったなと思います。

 

 

ちなみに高校の最寄りのバス停(駅まで歩ける距離だけどしんどいからバス使ってた)前にホームセンターがあるんだけど、そこのおじさんでめっちゃ気に掛けてくれてた方がいて。怪我して10ヵ月後(もうバス使ってなかった)の文化祭準備期間にそのホームセンターに急用があったんですね、たまたまそのおじさんと話して、なぜか開店前のホームセンターの中に通してくれたんだけど(めっちゃ優遇してもらってるのおかしい)、帰り急いでたから走って帰ったんですよ。

んで時は進んで卒業前、あのおじさんにも感謝の言葉伝えに行こ~と思って会いに行って話したときに「実はね前来てくれた時泣いちゃって!」って言われて、「なんで?」って思ったら自分が走って帰った姿に「もう走れるんだ」となって泣いてくれたらしい。本当に恵まれてるなと思いました。ちなみにそのおじさんの教えですが「最終学歴で出来た関係性を大切にした方が良い」という話があります。布教しときます。

 

またちなみに、高校生の時、ジャニーズが好きだったのですが、母の実家に行くついでに大阪にグッズを買いに行ったとき、グッズまでの道のりが階段で、しかも混沌としてる並び列でした。

自分は上るの遅いから母に先行って!と言っていたのですが、その時に周りにいてくれた関西のジャニオタの皆さんが自分が「抜かしてください」というまで後ろでそっと見守ってくださって、しかもその後も元いた位置を譲ってくださって、めっちゃ申し訳ないけど嬉しかったのを覚えています。

しかもグッズとは関係なく関西の人はコケても大丈夫!?と声を掛けて下さって、関西の人は優しいということを自分は全力で信じています(絶対に関東にも優しい方はいるんだけどさておき)。

 

 

 

ということで(?)、掴み切れていない要点を挙げておきます。

 

・人に感謝出来る人になった

自分のことを助けてくれる人に対しての感謝の念がマシマシになりました本当に。自分は人に生かされている、多くの方がいてくれるからこそ自分が生きているということが心の奥底から分かった気がします。

自分も少しでも気遣いの出来る人間になりたいなと思います。

 

・信じられる人とそうではない人が分かった

めっちゃ失礼ですが文字通りです。学校で1人行動が増えたときに母に言われたことです。

自分が苦しい時に寄り添ってくれる人が自分にとって大切にすべき人だなと思います。もちろん大学から仲良くしてくれてる人にも感謝だけどあの頃から仲良くしてくれてる人にもあんなにめんどくさかったはずなのにマァジで感謝しかない。

 

・めちゃめちゃ寝るようになった

それまで車の中でも授業中でも一切寝ないタイプだったんですけど(車の中に関しては寝れなかった)、毎日疲れの度合いがレベチなので(常に運動量が人の数倍ぐらいある感じ)、ギブスと泣いてるので毎晩寝れない分昼間が凄く眠くなるようになりました。ちなみに今もこれは変わってない。強いて言うなら昼間も寝るけど夜もめっちゃ寝るようになったぐらい。

 

・1人行動が怖くなくなった

それまで典型的な集団行動系女子だったのですが、1人で映画館とか1人でカラオケ、ご飯とか何か諸々大丈夫になりました。1人も寂しかったけど、1人でいる楽さも学べた気がします。

 

・メンタルが鍛えられた

信じられる人とそうではない人の話とか1人行動の話ともちょっと似ていたりするかもなのですが、とにかくメンタルは強くなったなと思います。

自分が今まで信用していた人でもやっぱり怪我をしている自分に対しては面倒だと感じることだったり、修学旅行でとんでもない急角度の坂+階段を20分はかけて上ったときは体力的にもやられた(違)。けど逆の立場になったら当然だなって思う訳ですよね、自分がマイノリティーの世界なんだからしょうがない。地方自治体や企業も採算性の取れないサービスはやらんよなそりゃって感じです(?)。

結局人間は最終的には1人だし、最後信じられるのは自分なんだなということを死ぬほど学んだ気がする。

 

・可哀想と言わないで

可哀想と言われると自分が無条件に下に見られてるんだなって思うので、それが結構しんどかったです。自分としては足を怪我して松葉杖ではあるけど同じ土俵には立ててると思いたかったので、急に違うステージだということを突き付けられてしんどかった、何が正解かは分からないけど、共感とか大変なこともあるよねぐらいな感じで言ってくれるとありがたいなと思いました。

 

・何もしないこともサポート

怪我をして凄く感じたところなのですが、色々とこれやろうか?あれやろうか?という気持ちは引くほど嬉しくても、実はちょっと難しかったりもするという話もあります。本当に本当に嬉しいんだけど。

あと自分は松葉杖だったので、たくさん話したくても歩きながら話すと息が切れるからみたいな話もあった。

自分は何より自分が大多数とは一緒のように行動出来ないことがしんどさの大きな一因にあったかなと思います。色々提案してもらうことも重ね重ねお伝えさせて頂くように嬉しいのですが、当然のように隣を歩いてくれることもめっちゃめちゃ嬉しいよという話です。

 

 

 

話は変わります(え)。

 

進路を考えるときに自分も怪我とか障害を持った側の人を助けたいなという漠然としたものがあって理学療法士に出来ればなりたいなと思ったけど大学あるからさすがに進むかとなり、興味のあった学部の研究室は方向性が違い、広く捉えれば開発援助みたいなお話じゃないかと高校に教えに来てくれてる大学教授にアドバイスを貰い決めた第一志望学部も落ちという始末ではありました。

今の学部は何の興味も無いし4年目にしてやっぱ向いていないということも確信を持ち始め、という感じですが、大1に取った社会学が結構近しいものがあってバカ長いリアぺを教授に投げつけたりしたし、単位に入らない科目で障がい者雇用とか手話言語学とか、何に繋がるのか分からないけど取ったりしてたし、何かご縁があって知的障がいとか発達障がいとかで身体障がいではないのですが、障がい者支援ボランティア的な(そんな大層ではない)ものに参加したりしてます。

 

怪我がきっかけで割と話すようになった先生がいるんですけど、高校卒業時に「あなたは真っ直ぐすぎるからナイフを持ってる人とかが大学で増えた時に傷つくと思う、強く生きなさい」と言われました。ので、今は強く生きようとしています知らんけど。

将来は直接繋がるものではないけどちょっと関連性があるんじゃない?という観点もある業界に就職するつもりです。家族から猛反対されてますが。

 

大学で部活動をしたいなと思っていたりもしたけどそれはさすがに諦めました。

怪我をしたことはもちろん全く嬉しくないです。でも怪我してなかったらもうちょっとつまらない人生になっていただろうなと思うし、怪我したからこそ失ったものも多い分、怪我したからこそ得られたものも多いなと思えている今の状況がだいぶ幸せです。

 

 

 

ということで、長々と書き過ぎて約12,800文字ですが、最後まで読んで下さった方も、そうではない方も、ありがとうございました!!!!!

そして、菊地さんをはじめとして、支えてくださった沢山の方々、ありがとうございました!!!!!