どこまででも行けるから

ちょっとまだ何書くか決めてませんが、真面目なことも、つまらんことも書いていこうと思います。

小2の無知だった私が横浜で地震を経験してから10年

1年が始まって69日目!!!

 

 

 

どうも、よいちょ仁瑚です。

 

今日は3月11日ですね。東日本大震災から10年が経つみたいです。

 

私は横浜市の内陸側に住んでいるのでほとんど被害は何もなかった人でしたが、あの日のことは記憶に残っています。

 

私は当時小学2年生で、地震が起きた時は下駄箱にいました。靴を履きかけている時にガタガタッと揺れが来て、周りのみんなも「地震?」となっていました。私は当時地震というのは身近にあるものだし恐ろしいものだということは頭にあったのですが、実際は自分の身には起こらないことというか、他人事だという認識がありました。

外にいた先生が「下駄箱にいる人は外に出てきて!ランドセルを頭に被せて!」と言っていたので言う通りにはしていましたが、ちょっと面白いことが起きているんだなみたいな舐めた態度でした。その後校庭に移動した時も泣いている同級生を見て「そんなに怖いか?」という感じでした。

その後校庭で親が引き取りに来た人から下校していく形だったのですが、なんだか珍しい感じだなぁといった感じでした。

 

これは我が家にも言えることで、10年前の今日は姉の中学校の卒業式で地震発生時は式が終わって母と姉が家にいたのですが、姉は揺れるシャンデリアを見て危機を感じ机の下に隠れたそうですが、母はソファで韓国ドラマをちんたら観ていたそうです。今振り返ってもしシャンデリアが落ちてきたらと考えるとぞっとします。

 

 

その日は姉の中学の謝恩会があり、私も母と一緒に行く予定でした。

姉は謝恩会の前に中学の同級生たちと集まってから謝恩会の会場に向かうということだったので、姉は先に外出して、私と母が少し後の時間に謝恩会の会場に向かうという形でした。

小2の私の記憶は完璧に残っている訳ではないので停電をしていたとかは曖昧過ぎて覚えていないのですが、謝恩会の会場に着いた姉の同級生の親と姉と一緒に別の場所に集まっている姉の同級生達で連絡を取ろうとした時に携帯が繋がらなかったのを覚えています。

我が家がWILLCOMの携帯を使っていたのですが、(Softbankも繋がった気もするけど)WILLCOMの携帯が1番安定して繋がるということで、姉と母がそれぞれの状況を説明して連絡を取り合っていた記憶があります。

ちなみに謝恩会はこの状況じゃ困難だとなったようだったので中止になりました。

(ちなみに私は寒いから他の方の車で待機させてもらうように言われたのに、他のお子さんが車にいて気まずいという理由で夜遅くまで外にいたのでマイコプラズマ肺炎になりました。行く予定だった沖縄旅行には行けませんでしたという切ない記憶…。)

 

しかも当時って携帯の大半がまだガラケーだったので、Twitterとかがまだあまり普及していないんですよね、原発の話とかはテレビや新聞からしか伝わってこなかった気がします。

ただSNSが当然の様に存在する現代でも地震の時はSNSは頼りにならないそうです。というかまた混線しちゃったりすることももちろん考えられるので、通信手段がないという前提で全てを考える必要があるそうです。この前見て納得した話なのですが、地震が起きて避難する際は家の玄関のところに紙に避難する場所を書いて貼っておくのが良いそうです。津波だったり家事だったりがあった場合は話は別ですが(だからこそ事前の話し合いが必要)、これだったら家の前に来た家族は自分の家族が避難している場所をすぐに確認できると思います。

 

 

当時小学2年生だった私ももう卒業を控える高校3年生です。やっぱり時が経つにつれてあの地震はとんでもなかったんだということを感じるようになりました。

私の家族は特に危機感に欠けていたと思います。棚が倒れて来ないようにする棒とか非常用リュックとかも持っていなかったので買いました。

ただ、多分津波とかを経験していない私は、そういう経験をされた東北地方の方々よりも危機感がないと思います。

当時今よりもまだまだ未熟でヘラヘラしていた私ですが、もう知るべきことを知る必要があるなと感じます。

 

 

スマホを使うようになってから毎年やっているのですが、Yahooで今日「3.11」と検索すると東北支援などの為に1人10円募金が出来ます。ぜひ皆さんもやってみて下さい。

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